もう三回忌・亡くなってからの月日は本当に早く流れる…生きるって誰かを見送ることだと実感

結び目 生活

早いもので9月も半ばになりました。9月15日は法事の予定。夫の叔母の三回忌です。

叔母が亡くなってから(敬老の日に亡くなった)、もう2年が経とうとしているなんて、本当に早いと思います。

結婚してからやってきたこと

結婚してからって、子育てばかりしていたと思っていましたが、それと同時に亡くなった人も見送ってきたんだと気が付きました。

私の父と母、夫の祖母、叔父と叔母。自分より先に亡くなるのは当然のようですが、それでも結婚した当時は皆、元気でいたんだと思うと、今誰もいないのは何だか不思議です。

最近ではテレビをつけると、芸能人の訃報。別に最近ドンドン亡くなっているわけではなく、自分が訃報を気にしているから、敏感になっているのでしょう。自分が若いころからテレビで慣れ親しんだ顔がもう、見られないんだと思うと寂しいような気もします。

こんなことを経験しているうちに、自分が元気で生きているって、他の誰かを見送ることなのかもしれないと思うようになりました。確かに自分が生きていなくては、誰かを見送ることはできません。

夫の祖母(叔母にとっては母親)は晩年、誰かが亡くなるたびに繰り返し言っていました。
「また死んじゃったよ。ばあちゃんは取り残されちゃう…誰もいなくなっちゃう」

老人になる前から知っている人がいなくなるのが寂しいのか、自分だけ取り残されるのが寂しいのか。それとも、いよいよ次は自分の番だと思うのが心細いのか、私にはわかりませんでした。

人間は死ぬものだという実感

祖母が亡くなってからは26年経ちますが、いまだにわかりません。と言うことは、自分はまだそれほど差し迫った状況ではないということでしょう。しかし、祖母が亡くなり叔母が亡くなったのを見ていると、次は自分たちだと思わずにはいられません。

自分の母が亡くなった時も、次は自分だと思いましたが、祖母と叔母を見ていると、こういうふうに親を見送って、次は自分も見送られるのだなと一層はっきりと実感できるようになりました。

まあ、誰もが死ぬことは最初からわかっていたことですけどね。今までは実感に乏しく、これからはさらに実感の度合いが深くなっていくのだと思います。

人と人とは、どんなに固く結ばれていると思っても、いつかはほどけてなくなってしまうようです。まあ、また新たに結び目ができるのかもしれませんが。

自分も亡くなることを踏まえて…

そう言えば、法事を取り仕切る叔母の息子(夫にとっては従弟)は、三回忌には香典を持ってこないでくれ、と言っています。香典も香典返しもなしで、法事を行うわけです。

従弟も両親を見送って、いろいろと思うところがあったようです。少しでも自由に、自分の思い通りにしたい、というところでしょうか。

結局法事って、亡くなった人のためでなく、遺された人のためにやるものですから。亡くなった人は自分の法事がどうだったか、確かめる術はありません。

残された人たちが、自分を納得させるため(自分はちゃんと供養しているとか、これで亡くなった人が喜んでくれるとか思いたい)にやるのが法事なのでしょう。

なるべく質素で負担にならず、でも亡くなった人のことを偲べる集まりにできれば良いですね。そうできれば、自分が亡くなったときに、周りの人の負担が少しは減るかもしれません。

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