楽しみに読んでいるブログ「お茶のいっぷく」にこんな記事がアップされていました。「親の死に目に会えないのはいけないことなの?」
とても大切にしてきた結果
そう言えば日本人は昔から死に目ということをとても大切にしてきたようです。よく、夜に爪を切ると親の死に目に会えないと言って、叱られました。救急車や霊柩車が通ると、親指を隠さないと親の死に目に会えないとも言っていました。
私も親の死に目に会うのが子どもの大切な務めだと信じてきました。私の実家の父も母も、埼玉県の自宅から遠く離れた場所の出身でしたから、親の死に目に会うことはできませんでした。私は子ども心にも、父や母のようになるまいと思ってきたのです。
夫の実家と私の実家は同じ市内にあったため、結婚が決まった時に、これで死に目は大丈夫という妙な安心感までありました。
しかし、私は父の死に目には会えませんでした。死の直前、病室には母が一人で付き添っており、何かあったら電話をするからと言われ、私と夫は自宅で待機していました。しかし、電話で母はこんなことを言ったのです。
父の死に目には会えなかったけど
心電図っていうの?あれのグラフがおかしいのよ。山型だったのが、平らになっちゃったの。看護師さんに言った方が良いのかしら?
私が病院に到着したとき、父は息を引き取っていましたが、母がずっと付き添っていたこともあり、私は後悔しませんでした。父は母が付き添っていたから良かったけれど、母の時には私がしっかりと付き添っていなければ、母は一人で亡くなる可能性があることだけは、しっかりと認識しました。
私は想像だけで言うしかありませんが、これから死んでいくのは、とても心細いだろうと思ったのです。たとえ死んでいく人に何もできなくても、側にいて見守ってあげよう、私はこう考えました。
父がなくなった12年後に母も亡くなりました。当時、母を担当していた看護師さんが「今夜あたり泊まった方が良いですよ」と言ってくれて、泊まり込んだ翌日に母は亡くなりました。思う存分付き添うことができて、私は気が済みました。
死に目に会ってみて
実際に親の死に目に会うことができて、私は人間はこうして死ぬのだと初めて知りました。何度か大切な人の死に目に会うことで、自分が死ぬ準備ができるのかもしれません。
はっきりと次は私が死ぬ番なのだと感じ、数カ月はうつうつと暗い気持になりましたが、一度もこういう経験なしに自分の死と向かい合うのはもっと苦しいのかもしれないと思います。
家族の死に向き合うのは、怖いです。死にゆく人をただ見つめる時間には、無力さしか感じられません。mihoさんの夫は、もしかするととても死と向き合うのが怖かったのかもしれませんね。怖がりの人が恐怖のあまり、他人に八つ当たりするのはよくあることのように思います。
しかし、死に目に会えなかったから、その死が受け入れられないということは、私にはありませんでした。父の死も母の死も私にとっては、同じ重さです。
だから、そんなに死に目を重く見る必要もありませんが、会えるなら会っておくと良いと思います。誰でも死ぬのは一度きり、初めての経験です。心細いに決まっています。生きている人たちの心ばかりの餞が、死に目に会うことだと私は思います。
残念なのは亡くなった人に、感想を聞けないことです。もし、聞けたら意外と死に目に会いに来てくれてもわからなかったよ、などと言われるかもしれません。それでも、誰でも必ず死ぬわけですから、一度は親の死に目に会っておくと良いのではないでしょうか。
よろしくお願いします。