昨日私は次女のために、メンタルクリニックを予約して、それだけで少し達成感を感じていました。
しかし、今は緊張してきているのも事実です。次女の精神状態が今、どのようになっているのかをはっきりさせるためにメンタルクリニックを予約したのですが、それがはっきりすることで私はすっきりするかもしれないと期待しているのと同時にはっきりしてしまうのが怖いとも思っているのです。
怖いけれど診療を予約した理由
何か重大な病を抱えている、あるいは障害があると言われるのも怖いし、反対に何も異常はありませんと言われるのも怖いです。
病や障害があるなら、それとどう向き合えば良いのか、私が向き合っていけるのか、恐れに似たものを感じます。何も異常がないと言われれば、それではこの5年間の生活は一体何だったのだと大きなショックを感じるでしょう。どちらに転んでも怖いというわけです。
ただ、次女の状態をはっきりさせることは、次女本人のためだけでなく私のためでもあると思っているので、私は怖いからといって診療を取りやめたりはしないでしょう。なぜ、私のためなのかと言えば、私は次女を育てる間しょっちゅう違和感を覚えていました。私は違和感の正体を知りたいのです。
もちろん長女のときも違和感を覚えたことはありました。明らかに自分の子ども時代と違っていると、どうしたら良いのかわからなくなりました。しかし、次女の場合は思春期に差し掛かるころになると違和感が一層はっきりしてきたのです。
私が感じた違和の一例
次女が中学生のとき、しょっちゅう私に映画を観に行こうと言って来たので「友だちと一緒に観に行ったら?」言ったことがありました。すると次女はこう返事をしたのです。
私の好みの映画だと相手が損をしちゃうでしょ?映画は高いからそれじゃあ悪いし。
私は「次は相手の好きな映画をみたら、お互い様だよ」と言ったところ、次女は絶対にそれは嫌だと言うのです。友だちのために観たくもない映画を見るのは絶対に嫌なのだそうです。次女はお金のムダだと言っていました。
そもそも私が次女の友だちだと思っていた人たちは次女に言わせると、ただ同じ小学校だった人、ただ同じクラスだった人ということで、特に友だちではないと言いました。だから、自分からどこかに出かけたいと誰かを誘うことは皆無、たまに相手が誘ってくることもありましたが、何かと理由をつけて断っていました。
不安だったけど、どうしたら良いかわからなかった
私にも現在は友だちと呼べる人はいませんが、学生時代は一緒に出かけたり、放課後におしゃべりをしたりする相手がいました。
長く続く身になる関係ではなかったかもしれませんが、その時々で楽しく笑ったこともありました。それが次女にはまったくないわけですから、心配を通り越して不安になりました。けれど、私は次女に何と言って良いのかわかりませんでした。
私は小学生のとき、自分の母親から「友だちがいないのは、お前が嫌われているからだよ」と言われてショックを受けた経験があり、どうしても友だちがいた方が良いとは次女に言えませんでした。友だちは気がついたらできているもので、親がうるさく言って作るものではないような気がしたのです。
どうしたら良いのかわからない私は、最終的に次女と映画に行かなくなりました。私といつも一緒にいると余計に次女は友だちができないだろうと考えたのです。しかし、次女は1人で映画館に出かけるようになっただけでした。
私に対してはまったく普通の娘である次女ですが、友だちと映画に行く行かないという話をしているとき、私は寒々とした気持ちになりました。私は次女のことが怖かったのかもしれません。
幸せになるために違和の正体をはっきりさせる
今次女が引きこもりになっているのは、幼いときからの積み重ねの結果であるように私には思えます。何かのきっかけで引きこもりになったというよりは、生きにくさを我慢して我慢して今の状態になったような気がするのです。私も夫も次女が普通の子よりは気難しいという認識はありました。それでも、世間一般の常識に合わせて生きていくことに疑問を感じていなかったように思います。
大丈夫、次女は合わせられる、そう思っていたから特にうるさく言うこともなく、結果的には放置してしまったことになります。私が感じた違和の正体がはっきりすることで、次女への接し方が変わるかもしれません。私たちも次女もどちらも幸せになりたいというのが今の本当の思いです。
次女も我慢してきたのかもしれませんが、この5年間私も夫も長女も我慢をしてきたのは同じだと思います。こんな言い方をすると誤解されるかもしれませんが、引きこもりの家族がいるということは、まるで爆弾を抱えているような不安な気持ちで生活することを意味しています。こんな生活を終わりにするためには、怖くても違和の正体をはっきりさせないといけないのです。