忘れるのと記憶喪失の違いについて考えた

生活

テレビで、交通事故の後遺症で記憶喪失になった男性について放送していました。彼は幼いときから食べていたインスタントラーメンの香りで、記憶を一部だけ取り戻したそうです。

現在50歳を過ぎている男性ですが、今でも高校生のときの記憶などは一切なく、同級生から連絡をもらってもまったく思い出せないということでした。番組を一緒に見ていた夫がこんなことを言いました。

私たちも日々忘れているけど

高校生のときのことなんて、一々覚えてないよね。高校生のときの記憶がないからって、記憶喪失って言えるの?そしたら、俺も記憶喪失なわけ?

確かに私も中学・高校のときはおろか大学生のときのことも記憶がおぼろげです。子どもたちが小さかった20年ほど前までは、もっとハッキリとした記憶があったように思います。それが今は思い出そうと頑張っても、なかなか思い出せることがありません。

しかし、思い出せることがないから記憶が消えてしまったわけではないでしょう。私と夫はただの忘れっぽい人であって、記憶喪失とはまったく別だと思うのです。

忘れていても残っている、記憶というもの

その証拠に、私も夫も人の名前をど忘れしてしまったとき、「〇〇さんだよ」とその名前を言われると「あ~、そうだった」と思い出すことができます。本当に記憶が消えてしまったのなら、そうだったとは思えないはずです。そうだったと納得できるのは、〇〇さんについての記憶が失われていないからだそうです。

私たちの記憶は、時間が経つと引き出しに仕舞われているような状態になると聞いたことがあります。私や夫のど忘れの状態は、記憶というものを一瞬どこにしまったのかわからなくなった状態なのかもしれません。どの引き出しに仕舞ったのかわからなくなっても、捨てたわけではないので必ずいつかは見つかります。

いろいろな引き出しを開けてやっとお目当ての記憶が見つかったとき、私たちは「思い出せた!スッキリした」と感じるのでしょう。長く生きてきて記憶が増えていくと、同時に記憶を仕舞う引き出しが大きくなり、数も増えるのだと思います。だから、どこに仕舞ったかわからなくなる、ど忘れも多くなるのでしょう。

もし、思い出せないと…

ど忘れの場合、記憶はちゃんと自分の中に仕舞ってあるため、きっかけがあれば、すぐに記憶が蘇るのです(あくまで私の感想ですが)。記憶喪失というのは、記憶が仕舞ってある引き出しに一時的に鍵がかかってしまい、自分でもその記憶を取り出すことができなくなっている状態なのかもしれません(つまり、思い出すことができないわけですが、それでも記憶が消えたわけではないはずです)。

ど忘れはいつかは思い出せると自分でも思っているため、安心していられますが、記憶喪失で自分の記憶を確かめることができない、しかもそれがいつまで続くかわからないとき、人はどんな気持ちになるのでしょうか。

私は足元のおぼつかない不安定な気持ちを感じるような気がします。

記憶にも役割があると思う

記憶は自分の積み上げてきたものでできています。私のイメージでは記憶が積み上がった上、もしくは前に自分がいるような気がしています。たとえ全てを憶えているわけではなくても、記憶はあるのだとわかっているからこその安心感を私たちは無意識に抱えているのだと思います。

しかしその記憶があるとき、まるで失くなってしまったように感じるというのは心細いのではないでしょうか。

だから、私はいくらイライラさせられても、ど忘れで済んでいることに感謝をしたいと思います。仕舞っている場所さえわかれば、また記憶を取り出すことができるのですから。

記憶も断舎離したい

しかし、実際のタンスの引き出しもそうですが、いくら中を整理したところで、仕舞うものの量が同じなら使いやすくなりません。

それと同じで記憶も断捨離を心がけると良さそうです。自分の記憶を整理して、新しい記憶を定着させたり、必要な記憶を呼び起こしやすくできるならこれからの人生に役立ちそうです。ど忘れが減るだけでも嬉しいです。

私の場合は、まずネガティブな記憶を断捨離したいと思います。ですが、記憶はどうすれば断捨離できるのでしょうか。忘れたいことほど、私は忘れられませんが、皆さんはそんなことはありませんか?

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