先日の「相棒」を見ていて、自分の母のことを思い出しました。主人公・杉下右京のロンドン時代の相棒・南井 十(なんい つなし)が行っていた殺人は、実は彼の妄想に由来していたという話でした。
伊武雅刀さんに母が重なった
私の母が亡くなる直前に、明らかに幻覚や幻聴に悩まされて、現実の世界とは別のところにいましたが、母は南井のようにしゃべることができなかったので、私は母はどんな世界にいるのか、と考えることが多かったので、母のことを思い出したのでしょう。
母は体調が悪くなって、診察を受けたときにはすでに手遅れの状態でした。やっと入院してホッとしたのも束の間で、すぐに今日は何月何日なのか、何度も尋ねるようになりました。その後に、病室がうるさい、工場の音がする、と文句をいい出しました。母が別の世界にいることを想像もしていなかった私は、個室に入ることを提案しましたが、母にお金がもったいないと却下されてしまいました。
そのうちほかの患者さんの迷惑になるから、と病院側から個室に入ることを勧められるようになりました。母は大声で殺される、助けて、などと叫ぶようになっていたのです。個室に入って、鎮静剤などで落ち着いてからも、母は病室の1点を見つめることがよくありました。
今でもそこに何が見えたのか、知りたい気持ちが私にはあります。なぜ知りたいのか、自分でもわかりませんが、同じものを見れば、同じ思いが共有できるような気がしているのかもしれません。
幻覚も幻聴も共有できれば、相手を理解できる?
相棒の南井だけに犯人が見えていたように、母も1人で何かを見ていたなら、それは孤独だっただろうと思いましたが、母が別の世界に行ってしまったことを悟った私も孤独でした。
母が行ってしまったこと、そして自分もいつかそんな世界に行ってしまうかもしれないことの両方が私のことを孤独にしました。それに私が同じものを見たところで、どうやって思いを共有すればよいのかは疑問のままでした。
でも、先日の相棒では、杉下右京が南井を抱き寄せるシーンがありました。何かできなくても、たとえ相手と同じものが見えなくても、ただ抱き寄せる気持ちがあれば、孤独を解かす力になるのかな、と思いました。
他人と同じものは決して見られないから
もともと人が何かを見るときは、目だけで見ているわけではなく、脳が深い関わりを持っているそうです。目に何の不具合が無くても、脳のために目が見えなくなることもあるといいます。つまり、私たちが見ているものは、自分の脳が見せる世界です。人はそれぞれ違う脳を持っているから、同じ対象を見ていても、同じ世界を見ているとは限らないのです。
杉下右京は、それがわかっていて、同じものを見るのは無理なのだと知っていたのではないでしょうか。同じものを見て、孤独を解かすことはできないから、せめて相手を抱き寄せたように私には感じられました。
ドラマを見ながら、相手の身になること、相手を理解することは、本当はできないとわかっていなくては、相手を抱き寄せることはできないんだろうな、とも感じました。私たちはつい、自分のことをわかってもらえると思ってしまうし、身近な人のことなら理解できると思ってしまいます。それこそが、妄想かもしれません。
私は母の見た世界にこだわるよりは、母を抱き寄せた方がよかったような気がします。それにしても、私が見た中では、杉下右京が誰かを抱きしめたのは、初めてで、ちょっと驚きました。