福沢諭吉は神社の御札をトイレ紙の代わりに使ったそうですね。大変罰当たりな気もしますが、福沢諭吉の度胸の良さを表している話だそうです。私はこの話を聞いた時に思い出した人がいました。それは私が新卒で入社した会社で働いていた男性社員でした。
当時私は22歳、男性社員は10歳ほど年上でしたが、年配の男性が多い職場だったので、その人は気のいいお兄さんとして認識していました。出社や退社のときにバスで一緒になったとき、何の拍子かお墓の話になり、塔婆について話をしたことがありました。
塔婆でスキー
私は塔婆が墓石の裏に立っていると、墓場という感じがしてちょっと怖いですね、などと言ったのだと思います(ゲゲゲの鬼太郎の見過ぎだったのかも)。するとその人はニコニコしながらこう私に言ったのでした。
塔婆って懐かしいな~。俺、あれを足につけて、雪の上を滑ってたわ。
男性社員は塔婆をスキーの板代わりにして遊んでいたと言うのです。私は思わずそんなことをすると罰が当たります、と言いましたが、彼はキョトンとするばかりで、更にこう言いました。
どうして?あれはただの板だよ。人間が作ったものだよ。形はちょっと変わっているけど、ただの木片!
ダメだと直感した
その頃私は塔婆の意味など深く考えたこともありませんでした。父の実家は浄土真宗の信徒でしたが、浄土真宗では塔婆が使われなかったのです。しかし、誰かがお墓に立てたものをいくら子どもでも勝手に使うのはダメだと感じました。しかも足の下に踏みつけるのです。
結婚してからは、毎年お盆に新しい塔婆をいただくことになり、塔婆をじっと見る機会が増えました。塔婆は亡くなった人を供養するために、遺族がわざわざお金をかけて用意するものだということを再確認したのです。
すると、あの時の彼の話が蘇ってきて、再び嫌な気持ちになりました。塔婆をスキーの代わりにするのは、亡くなった人だけでなく塔婆を立てた遺族に失礼だと感じました。福沢諭吉も紙の御札に神様が宿っているわけではないと証明したかったと言いますが、それを拠り所にして神様を拝んでいる人にとっては失礼な話です。
まあ、罰など当たらないと言うのは本当ですから、その男性社員の言う通りです。彼は理系出身の技術者だったので、20代だった私の罰当たり発言はとてもおもしろかったようです。
塔婆も御札も古くなれば結局捨てられますが、捨てるにしても私は敬意を払って捨てたいと思います。そんなときに、焚き火で燃やすことができれば、ゴミとして出すよりも随分と気が楽になるのに、今はそれもできませんから(お寺ですらお焚きあげを断る時代です)、いろいろと難しい時代になったものだと思います。
嫌だと思う気持ちも大切にしたい
我が家の墓があるのは地域の共同墓地ですが、そこでは役員の方々が各家の塔婆を定期的にお焚き上げしてくれます(結局焚き火で燃やすのです)。消防署に許可を取ったりするなど、正当な手続きを経てやってくれているので、とても感謝しています。私の他にも塔婆に対しては、敬意を払いたいと考える人がたくさんいたのだと思います。
私は福沢諭吉のように世の中に役に立つことはできませんが、何か嫌だという感覚を大切にする生き方が良いと思ったのです。そしてそれは今も続いているわけですから、生き方としてはまあまあ良かったのでしょう。時折、あの男性社員は今も元気でいるのかと思い出します(罰は当たっていないと思いますが…)。
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