誰かが亡くなると花を供えるという風習があります。安倍元首相やエリザベス女王が亡くなったときは、花の量もすごかったですね。何にでも文句を言う夫はテレビで大量の花が供えられている様子を見て、こんなことを言っていました。
あの花は一体誰が片付けるんだ!全部ゴミにするなんてもったいない!最初から花なんて供えなければいいんだ。
あの花たちは肥料などに加工されるのだという話もありますが、それすらも夫に言わせれば無駄だそうです。確かに最初から花がなければ、後始末のことも考えなくて良いのでしょう。
我が家の近所にも花が供えられている
我が家の近くにもこの数年、ずっと花が供えられている場所があります。バイパス道路と国道が交わる交差点で、よく事故が起こる場所です。我が家の長女も高校時代に左折する自動車に接触する事故に遭っています。
その交差点で4年前の5月、男子高校生が事故で亡くなったのです。まだ、当地に引っ越してきてから間もなかったということでした。それ以来ずっと花が供えられています。花は定期的に供えられているようで、枯れていたりなかったりということはありません。
きっと男子高校生の家族の方が気をつけて、花を絶やさないようにしているのだと思います。テレビでよく見る献花の光景と、男子高校生の家族が供えている花には圧倒的な違いがあるように思われます。
献花の重み
テレビでよく見る光景は、突発的な感情の表れなのではないでしょうか。とにかく気の毒だ、かわいそうという思いで花を持って出かけて供える、そしてそれで終わりです。花を始末しなくては、とかそろそろ取り替えないと、などと考えることはないでしょう。それは当然です。亡くなった相手は気の毒ですが、自分の家族ではないのです。多分、一度花を供えて手を合わせたら、気が済むのではないかと思います。
しかし、我が家の近所に供えられている花は、男子高校生の家族が継続的に供えているものです。悲しみは突発的なものではなく、ずっと継続するはずです。悲しみとともに家族は生きていかないといけないのです。だからこそ、花が枯れたらそのままにはしておけないでしょう。そして新しい花を供えに行かずにはいられないでしょう。私は供えられた花を見るたびに、家族の思いが伝わってくるような気がします。
それはひたすら重いもので、今でも運転中に花を見るとドキリとするのです。その花の重さは私に注意を促してくれます。1人の人間が亡くなった場を通り抜ける、それを再認識させてくれます。私はこの花を見てドキリとする人が増えていけば、事故は減るのではないかと思います。
今日も交差点に供えてある花は価値のある花です。そこには重みがあります。しかし、ずっと花を供える男子高校生の家族を思うとき、いつかは現場となった交差点に花を供えなくても良い心境になることを願わずにはいられません。
もし、人間に魂があるなら、亡くなった場所にいつまでもさまよっているのは悲しいことです。家族なら成仏したとか、天国に行ったと思いたいものです。亡くなった場所に花を供えるというのは、そこに魂がさまよっているのだと認めることと同じなのだと思います。その心境から脱する日がご家族にも来ると良いのですが…