ブログを読んでいて感じる「死」について

生活

コロナ禍と呼ばれるようになって、もう2年目です。毎日たくさんの人がコロナになり、その中には不幸にも亡くなる人がいます。それを嫌と言うほど耳にするせいか、ブログを読んでいると死について触れられているのが目に留まります。

なぜ人は死について語るのか

人間は今生きている以上、必ず死ぬので死について語ることは自然なことかもしれません。たとえどんな亡くなり方でも、一人の人間が死ぬことが、周りの人間に大きな影響を与えて、死について語らせるのです。

一人の人が苦しんで亡くなるのを見た場合、自分もそうなるかもしれないと思い、それが心の負担になることがあるはずです。また、側で見ていた自分に何かもっとできることがなかったのかと、考えるきっかけになるかもしれません。これが私が考える死が与える影響です。

私の母は79歳で亡くなりましたが、突然ガンが発覚して、あっという間に悪化して死を迎えました。やっと入院できて、良かったと思ったときにはもう保っても1カ月の命だと言われたのです。

その母が亡くなるのを見たときには、自分もこんなふうに死を迎えるのかと暗澹たる気持ちになったし、なぜもっと早くガンを発見できなかったのかと、自分の気の利かなさや想像力のなさを呪いました。

孤独死をなくしたい思いは、周りの人のため

今孤独死(誰にも看取られないで一人で亡くなっていること)が問題になり、孤独死を防ごうとも言われています。これは亡くなる本人のためもあるかもしれませんが、多くは周りの人のためだと私は思います。

誰にも看取られずに亡くなるということは、死の経緯がわからないということです。その経緯がわからないことが、周りの人に不安を与えるのではないでしょうか。できれば、その死は順当なもので、本人は安らかに旅立ったよ、と周りの人は思いたいのに、経緯がわからないときはそれができません。

死を看取るのは、本人のためもあるでしょうが、実は周りの人のためなのかもしれません。結局私たちが死について語るとき、それはあくまで亡くなる人の視線ではなく、周りの人、生きている人の視線で語られます。

生き残る人のための死

それは当たり前のことです。亡くなった本人はもう何も語ることができませんから。私も母が亡くなるとき、絶対に最期を看取らなければいけない、と強く思っていました。それが私の義務だと思っていたし、一人で亡くなるなんてかわいそうとも思っていました。

でも、それは単に私が義務を果たしたと思いたかったから、したことだったのかもしれないです。母の本当の気持ちはどうだったのでしょうか。

母を見ていて、人間は命が終わるときに、あれこれと考えられるものかと疑問に思いました。亡くなるときは周りのことなんかにかまっていられないのかもしれません。

だからいっそのこと、自己満足の思いから看取るんです、とハッキリと割り切れれば良いと思います。結局死にまつわるあれこれは、すべて生きている人のためにあるのでしょう。

よく死生観と言われますが、それは生きているときのものであって、これから亡くなるときにはどうしようもありません。周りの生き残る人たちに託すしかないのです。

にほんブログ村 主婦日記ブログ 子育て終了主婦へ
にほんブログ村 PVアクセスランキング にほんブログ村

よろしくお願いします。

タイトルとURLをコピーしました