私は昔、記憶力が良かったです。今より若ければ当然のことだったのかもしれませんが、人にもよくそんなことを覚えているね、と呆れられたものです。しかし、段々と還暦が近付いている昨今、記憶力はかなり低下しており、低下しているだけならまだしも、自分に都合の良いように改変されていることも多くなりました。
だから、娘や夫に対して絶対に〇〇だった!と言い張ったことが、そうではなかったことも1度や2度ではありません。そんな状態ですが、それでも忘れられないことがあるものです。自分でもなぜこんなことが忘れられないのかと不思議ですが、その忘れられないことが自分の中身を表しているのかもしれないと思います。
私もお寺の言葉を見ていた
その中の1つがお寺の門前に貼ってあった言葉です。お寺の門前には掲示板があり、そこにありがたい言葉を書いた紙が貼ってあるのは、どの地域でも同じなのでしょうか。
このブログは私が楽しみにしていて定期的に読んでいますが、我が家の近所のお寺と掲示板までお揃いで驚きました。このブログ記事を読んで私にも、掲示板に書かれていた言葉で忘れられないものがあると思い出したのです。
ドキリとさせられた言葉
それは「人の為(ため)と書いて偽(にせ)と読む」というものです。細かいところは違うかもしれませんが、この言葉を読んで何だかドキリとしました。
これは人の為に何かをするとき、良かれと思ってやっていることが、本当にその人の為になっているのか、ちょっと疑いなさいという警告文なのでしょうか。もしかするとその行動は単に自分が良いことをしたと満足したいだけかもしれません。
それとも人の為とばかり言っていると、自分を見失ってしまうよ、と言っているのでしょうか。家庭の主婦(主夫)は人の為に行動することが多いです。家族のために家事をしているため、自分1人のときは何もやる気がしない人も多いでしょう。私自身がそうなのです。
私の人生が偽なのか
私は1人のとき、自分の為には何を食べれば良いのかすでにわからなくなっています。誰かがこれを食べたい、と言ってくれないと料理をする気になれないのです。
人は誰でも自分の為に生きています。もし子どもがいる人なら、子どもに対して自分の為に生きて欲しいと思うでしょうか。決してそんなことは思わず、子どもには自分の人生を歩んで欲しいと願うはずです。その自分の為に何をすれば良いかわからないということは、すでに偽の人生を歩んでいることのように私には思えます。
家族の為と言って、自分をおろそかにしている私も偽の人生を歩んでいるのかも、と怖くなったので、この言葉が今でも心に残っているのかもしれません。あまりにも心に残るので2度3度とお寺の前を通って見返しましたが、4度目には別の言葉に変わっていました。
私にとって身につまされる言葉だから印象に残り、記憶に残っているのだと思いますが、その結果、私は私のやることに余計に自信が持てなくなりました。
私のやっていることは大丈夫?
今、引きこもりの次女をメンタルクリニックへ連れて行こうと考えていますが、これは次女のためなのでしょうか。次女の為だと思っていましたが、これも偽の思いなのかもしれません。もしかすると、私自身が誰かに断定して欲しいのだと思うのです。
「お嬢さんが家から出られないのは仕方がありませんよ。お嬢さんは病気ですから」そう言ってもらえれば、誰も悪くないことになります。もちろん私も悪くない、そしてずっと平和に暮らしていけます。
それでいっとき平和に暮らせても、きっと偽の平和はもろいでしょう。私や夫がもっと年を取ったときに破綻するはずです。だから今は大変かもしれないですが、やはり偽ではなく本当の生き方を模索したいです。私だけではなく、次女もです。偽の生き方をしていないか、常に振り返ろうと思います。
「人の為(ため)と書いて偽(にせ)と読む」この言葉を覚えていられて良かったです。