私は遺品をどうしたか

生活

昨日、面白いブログはないかといろいろと読んでいたら、亡くなった父親の遺品を引き受けたために、自分の家が散らかってしまい、あと少しでゴミ屋敷になるところだったという記事を見つけました。

それまで自分の部屋にあるものは、すべてきちんと仕舞い場所を確保していたのに、急にたくさんのものが部屋に侵入したために、場所の確保ができなくなってしまったというのです。この人(男性でした)は、思い入れのある親の遺品だから、処分するとしても丁寧にしたかったそうです。

そこで余計に部屋にものが溢れている状態が続き、更に自分が生活している時に出るものも加わって、部屋の状態が悪化したのでしょう。

遺品は粗末にできないと私も思う

私もその気持ちはよくわかります。自分に親しい人が亡くなったとき、遺品は亡くなった人そのものだと感じられます。ポイポイとゴミとして捨てたら、亡くなった人が浮かばれない、などと考えてしまいます(私はそうでした)。

私の母が2015年に亡くなったとき、その16年前に夫の祖母が亡くなっていました。その経験から、結局残されたものはゴミになってしまうことはわかっていました。人にあげて喜ばれるものや売れるものはほとんど残っていませんでした。実際に祖母の娘(つまり夫の叔母です)に要るものがあったら持って行ってくれ、と声をかけましたが、叔母はこう言っただけでした。

手伝わなくて、悪いけど、何も要らないよ。全部捨てちゃってくれないかしら。

そして、なるべく早いうちにやらないと、片付けは大事になってしまい(自分も年を取りますから)、ますますやりたくなくなることもわかっていました。ある程度の年齢になって、遺品整理を先延ばししていると、また誰かが亡くなることになり、遺品は雪だるまのようにドンドンと大きくなるのです。

夫は父と母、そして祖母と亡くしていますが、遺品整理を怠ったために、大変な手間と労力が必要になってしまいました。だから私は母が亡くなったときに、なるべく早く母の洋服だけでも処分しようとしました。

母の洋服を売ろうとしたけど

状態の良さそうなものは近所のリサイクルショップに持ち込んだのですが、金額が付いたのはほんの僅かのものだけでした。あとは引き取れません、と言われてしまい、持ち込んだものをまた自分で持ち帰ることになってしまいました(そこでは売れないものはすべて持ち帰ってもらうということでした)。

結局、値段が付かないと言われると、それはそれで悲しいものです。多少は思い入れのあるものが何の価値もないと判定されたわけですから。

それなら最初から、自分でドンドン捨てた方が良かったかもしれないと思いました。価値がないと判定される憂き目を見なくても良いし、持ち込む手間も時間もかかりません(荷造りして店まで運ぶ手間や査定の間、じっと待つ時間がかかります)。

偶然にもその当時、子ども会の廃品回収があったので、リサイクルショップでは売れなかった母の洋服をすべて持って行ってもらいました。子どもたちの役に立てるなら、母の遺品も無駄にならないと思い、嬉しかったです。

廃品回収はやっていないと言う人でも、資源ゴミに出すなら、ただ燃えるゴミとして処理するよりも、誰かの役に立てるのではないでしょうか。

私が着ようとしたけど

最後に気に入ったものは、自分で着ようと思いました。それが遺品の活かし方としては一番良いように思ったのです。しかし、親子は当然ですが年が離れています。好みも違います。気に入って着ようと思うものはほとんどありませんでした。

いくつか持って帰ってきましたが、結局袖を通さなかったもの、1シーズン着て嫌になってしまったものばかりでした。それにどうしても母のものだという意識が抜けずに、何を着ても落ち着きませんでした。これが母の遺品を着なかった一番の理由かもしれません。

いろいろなことを考えましたが、結局母の遺品整理をしておいて良かったです。母の死から3年後、弟は思いがけず50歳を過ぎて初めて結婚することになりました。弟は実家を引き払い、新居へと引っ越して行きました。私のやった遺品整理は、多少なりとも弟の役に立ったのではないでしょうか。

母のものを処分するときは心が痛みましたが、今では思い出すこともありません。人間は裸で暮らすわけにいきませんから、どうしてもある程度のものが必要になります。その人が亡くなったら、必要がなくなったものを周りの人が処分するのは、当然のことできっと気に病むことではないのです。

私が保証します。遺品は捨てても大丈夫です。活かせるならその方が良いですが、決して無理をしなくても良いのです。すべてのものの収まりを自分の手でつけるのは大変です。ただ、捨てるだけでも私は十分に手を尽くしたと思います。

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