「私は差別主義者じゃないんです」といっている人を見て感じたこと

テレビ

今朝テレビを見ていたら、栃木県下野市の男性市議の発言が物議を醸していました。ざっくり言うと、LGBTQの人たちは隠れてひっそりと生きて欲しいという内容の発言をしたのです。彼はその方が生き方として美しいし、世の中を乱さないとも言っていました。

誰かを排除する社会では、自分もそのうち排除されそう

男性市議は幸福実現党に所属しているため、幸福の科学という新興宗教の教義に大きく影響されていると思われます。詳しいことはわからないですが、テレビで言っていたことを参考にすると、神様が作った男女の性別を大切にして子孫を繁栄させることで、この世の中を存続すること信者の皆さんは大切にしているようです。

まあ、それはそういう考え方もあるのでしょう、と思いますが、「隠れて生きて欲しい」という発言は明らかに余計なお世話です。隠れるのか隠れないのか、それは当人たちの勝手で、誰かに言われてするものではありません。

大体、同性同士では部屋もなかなか借りられない、いざというとき入院した人の付き添いもできないというわけのわからない社会だからいけないのではないでしょうか。異性との組み合わせなら安心、それ以外は異物のような扱いをしていると、それはいずれ自分たちに返ってくるように思います。

現に今、年齢が原因で部屋を借りられない人もいます。それは安心な枠からはみ出した人をすべて異物扱いしてきた結果の1つではないかと私は感じています。そんな社会では不便で仕方がないから、せめてパートナーシップ制度を作ろうという動きが出ているのでしょう。

こういう人の耳に届く声はあるのか

それを先ほどの男性市議は行き過ぎた配慮と言い捨てています。確かにパートナーシップ制度が最善策ではないかもしれません。この制度を自治体ごとに制定するのでは、まだまだ不便です(引っ越しなどをすると手続きし直すことになるかも…)。それに先々同性婚が合法化したときには、パートナーシップ制度が無駄になってしまう恐れもあります。

でも、これは行き過ぎた配慮なのでしょうか。私には、今は不便だからこれでちょっと我慢していてくださいね、という妥協案のように思えます。

不便な社会を変えていくのが政治家の役割だと思っていましたが、今日の時点では、そうではなさそうです。では、一体政治家とは何をするのか、疑問を感じます。そして、私が今日、一番怖いなと思ったのは、件の男性市議が「私は差別主義者じゃないんです」と言ったことです。

自分の中に差別意識がないか、普段から嫌というほど問いかけていても、差別は顔をのぞかせるものです。それもしないで、差別主義者ではないを枕詞にすれば良いとあぐらをかいているような態度をする人には何も任せられない、と思いました。

男性市議は誰の声をすくい上げてくれるのでしょうか。弱い人の声を聞いてくれるのが政治家ではないのでしょうか。彼の耳には弱い人々の声は決して届かないような気がします。彼は何のために政治家になったのか、不思議です。

自分もしているのだろう、と心配

差別って差別主義者(そんな主義者がいるのか?)がするのではなく、普通の良い人達がするから始末が悪いし、悲しいのです。私は、ドラマ「きのう何食べた?」の中で、西島秀俊さん演じるシロさんが父親に同性愛について言われたことがとても悲しかったです。確か彼は「それ(同性愛のこと)はいつ治るんだ?」と言われていました。

父親に悪気はなく、愛情深い笑顔で言った言葉でした。ドラマだとわかっていても棘のようにチクリと刺さる言葉で、自分も誰かを刺しているのかも、と心配になったのです。悪気はなくても、油断をするとしてしまう、それが差別でしょう。それをわかっていない人が政治家になっているのが日本の現実なのかもしれません。

しかし、いろいろと考えただけでも良かったのだと思います。いや、思いたいです。

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