災害は恐ろしいが正しく心配しないと、かえって話がややこしくなると思う理由

地震 生活

1月から3月にかけては、毎年地震のことを思い出します。他の月にも地震は起こっていますが、1月の阪神淡路大震災と3月の東日本大震災は私の心にも深く刻まれている出来事です。

もし、私の記憶が正しければ阪神淡路大震災の数年後、地震の恐怖から逃れるために家財道具をすべて自宅の2階に移し、自分は何もない1階で就寝していた年配の女性が亡くなったという新聞記事を読んだことがあります。

女性は良かれと思ってやったのだろう

女性の死因は圧死で、家財道具の重さに耐えきれなくなった2階の床が抜け落ち女性の命を奪ったのでした。女性の自宅が古いものだったことも原因の1つでしょうし、女性が1人暮らしだったことも原因となったのでしょう(家族がいたら、すべての家財道具を2階に移すのに反対したのではないかと思います。だって不便ですから)。

ちょっと極端だな、と記事を読んでいて思いましたが、今まで経験したことのない激しい地震にあうことで、家具が自分に向かって倒れてくるなど、女性は恐ろしい体験をしたのだと思います。それを回避するために、すべての家財道具を2階に移すことに至ったのでしょう。

年配の女性が1人ですべての家財道具を2階に運ぶのはなかなかに困難なことです。今の私の状態では、まず無理だと思います。それをやってのけたということは、女性は真面目でコツコツと仕事をする人間だった証拠になります。この女性がもし、根気がなく何事も長続きしない人間だったとしたら、家財道具を運ぶのは頓挫して、結果もう少し長く生きていられたのかもしれません。

私も同じ可能性があるのかも…

端から全部諦めてしまうのもどうかと思いますが、自然のやることに結局人間は太刀打ちできません。自然災害に対して自己防衛することも必要ですが、女性のように自分のやったことが裏目に出ないとは限らないのです。

だから私は心配し過ぎはかえって話をややこしくするし、災害に対しては最低限の備えで良いと思っています。後は自分の気持ちを強く保つこと、これが一番大切ではないでしょうか。どんなときも必ず自分でなんとかするのには、防災グッズよりも強い気持ちが必要です。

防災グッズや食料の備蓄はあればあったで心強いでしょうが、例えば周りの人たちが食料がなくて困っているとき、自分たちだけが備蓄の食料を口にできるでしょうか?それを考えると、改めて食料を備蓄しても…と思ってしまうのです。それよりは普段買い置きしている食料品を災害時にいかにして口に入れるかを考えておいた方が良いような気がします。

先程の圧死してしまった女性ですが、もし生きていれば災害時への心構えなど、周りの人に伝えるべきことがたくさんあったはずです。もったいないとはこのようなことを言うのでしょう。しかし、こうして何年も経ってなお、私の心に強い印象を残しているわけですから、やはり彼女から学ぶべきことはたくさんあるのでしょう。

女性の存在は、自分の備えは本当に正しいのかと確かめるきっかけになると思います。それから心配は正しい方向にしたいものだと思います。心配の方向が正しければ、女性はなくなることはなかったはずですから。ただ、自分の心配の仕方は正しいのかどうか、自分ではなかなか判断ができかねるのが困るのですが…

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