子どものときからこの年齢になるまで、私も人並みに不調に陥ることがありました。大病はしていませんが、だからといって不調は我慢すれば済むものではありません。何でも精神論で乗り切れると思ったら間違いだと私は思っています。
ですが、私は何度も病院で「精神的なものですね」と言われました。これは子どもにとっては、ズル休みと言われたのと同じ様な威力があったように思います。その時から私は「精神的なもの」という言葉が嫌いになりました。
自家中毒で苦しんだ
私は子どものときに、自家中毒(今は嘔吐下痢症と言うそうです)になりました。いくら病院に行ってもなかなか原因はわからず、学校には1カ月近くも登校できませんでした。精神的なものと言われても、下痢も嘔吐も止まりませんでした。
6歳の子どもの嘔吐と下痢が止まらなければどうなるかは誰にでもわかると思います。私は歩くのもやっとの状態になってしまいました。家族も私が1日の大半、トイレを占領していたため、とても困ったのではないかと思います。
結局私は自家中毒で2回も入院しました。入院して、絶食させられたのです(点滴はしていましたから、完全な絶食ではないです)。だから、原因不明の不調に悩んでいる人が、原因がわからない故に「精神的なものですね」と言われたときの絶望感が少しわかる気がするのです。
大人になっても言われると嫌だ
私もそうでしたが、女性は更年期になると、あちこち不調を抱えるようになりますが、原因不明と言われることも多いのではないでしょうか。私も胃の不調で食べられなくなったり、突発性難聴がなかなか治らなかったりして、クヨクヨした経験があります。
そして言われました。
精神的なものですかね。あまりクヨクヨすると良くないですよ。
そんなことはわかっている、と言いたかったです。しかし、クヨクヨしたくなくても、体調が悪ければ人間はどうしても暗い気持に傾きます。原因不明、精神的なものなどと言われると、不調を抱えた人は孤独も一緒に抱えることになると思います。医師にすらわかってもらえないなら、黙って1人で耐えていたほうが良い、こう考えるようになっても不思議ではありません。
もちろん、原因不明と言われるまでに医師はいろいろと調べてくれたのだと思うし、精神的なことが体に作用するのも事実でしょう。しかし、不調を抱えた人はせめて、こうすれば良いですよ、という指標がほしいのではないでしょうか。
何も言わずに放り出す(無責任な励ましを含めます)、精神安定剤を処方するのでは、不調を抱えた人を黙り込ませるだけになります。
時に悲しいことになる
精神的なものと決めつけることは、悲しい結末になることもあります。私の母は、79歳のときに腰の痛みを訴えるようになりました。脊椎間狭窄症や腰椎すべり症などの診断を受け、入院しましたが、ひどい痛みは増すばかりでした。
実はその痛みはガンからくるものだったのですが、母は腰の手術をすれば治ると自分で決めつけ、手術をするように、整形外科医に詰め寄りました。
とうとう整形外科医からは「精神的なものではないですか。ウチではもう診られません」とさじを投げられてしまったのです。意固地になった母はそのまま退院して、実家で療養することになりました。
紹介状も書いてもらえなかったため、私は嫌がる母を別の病院に連れて行き、一般外来で診察を受けさせ、ガンであると診断を受けました。入院はできることになりましたが、すでに遅く、母はそれから1カ月で亡くなりました。
私は今でも精神的なものではないですか、と言った医師のことを忘れていません。別に怒ったり恨んだりしているわけではありません。ただ、精神的なもの、というのは怖い言葉だなと思います。
精神と身体を切り離して考えるのはおかしい
今でもきっと世の中には、これは精神的なものだから、と我慢している人がたくさんいると思います。私はその人たちに、きっと道は開けるし、出口は見えてきますから、一緒に行きましょうと言いたいです。
そもそも、精神と身体は切り離すことができません。どんな症状も精神が影響していると言えます。精神的なものだから治療法がないとか、気の持ちようを変えてくださいで終わるのはおかしいことではないでしょうか。精神的なものから来る症状でも、快適に毎日生活するためにできることを見つけたい、私たちはそう主張しても良いはずです。
しかし、私の母のようになってしまっても困るので、自分で精神的なものだと決めつけるのも良くないと思います。たまには周りの人の意見も聞いてみてください。意外に自分のことは自分では見えないのです。
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