近所のおばあさんが亡くなりました。私は本当に久しぶりに、夫の代わりに四十九日法要に出席しました。
四十九日の意味
法要の後に、お坊さんの法話がありました。その中で四十九日までの間、手元にお骨を置いて供養することは、死を受け入れることになる、とおっしゃっていたのがとても心に残りました。生きている人と同じように、お茶やご飯をお供えしても、まったく減らない様子を毎日見ているうちに、誰でも『ああ、本当にこの人は死んでしまったのだな』と納得するのだそうです。
確かに毎日少しずつでも、死を受け入れる努力を積み重ねないと、私たちは大切な人の死に心が折れてしまい、立ち直れなくなってしまうのかもしれません。
同じ出かけるのでも、葬儀とは違い、四十九日法要にはどこかやわらかな雰囲気があります。葬儀には、もし失敗したら取り返しがつかないような緊張感があるのとは対照的です。もちろん不祝儀袋の表書きが御霊前から御仏前に変わるのも1つの理由でしょう。もう成仏して仏様になったのだと思うと出席する側の心が少し軽くなるような気がします。でも、もっと大きな理由は、お坊さんの話の通りに、残された人が死を受け入れたからだと思うのです。
冠婚葬祭の葬は、悲しい上に慌ただしく行われるので、大変ですが、死んだ人のためではなく、生きて残った人のためのものなんだな、と実感させられました。
冬の四十九日法要は寒かった!
ところで女性の喪服でパンツスタイルはあまりよくないといわれているようです。パンツスタイルはどこか実用的な感じがするのかもしれません。でも、2月の四十九日法要ではパンツスタイルで正解でした。お寺の中も寒かった上に、納骨のために墓地にも行ったのでもしスカートやワンピースだったら、と考えただけで具合が悪くなりそうです。
パンツの下にはレギンスを履いていましたが、それでも寒かったです。葬儀のときは屋内で過ごすことがほとんどですが、四十九日法要では納骨に立ち会うこともあるため、無理をしない方がよいでしょう。
法要後に会食をしますが、お座敷では足元が気になることがあります。でも、パンツスタイルなら安心ですから、パンツスタイルはおすすめです。亡くなった方は、近所の方で親戚ではなかったため、できたことかもしれません。
昔は自分の親が亡くなったときは、洋服ではなく和服を着る(喪服の話です)ものだといわれていましたが、今では誰もそんなことはいわなくなりました。実際に私は両親のどちらも洋服で見送っています。実際に自分の親が亡くなったとき、喪服のことまで考える余裕が無かったことも理由です。パンツスタイルについても、今後はもっと好意的に見てもらえるようになるかもしれませんね。
でも、やはり大変
それにしても、通夜、告別式、四十九日、一周忌と残された人たちの忙しさは、大変なことです。私は自分の経験を思い出しても、心がせわしなくなります。一周忌が終わるとなぜか1年で三回忌が来てしまいますから(理由がわかっていても、なぜ、と思ってしまいます)、当分は気が抜けません。これも死を受け入れる過程だと考えればよいのでしょうか。
我が家で今後、葬式を出すとしたら、私か夫の葬式になるはずです。考えるとせわしないので、夫の葬式は出したくないな~、先に私の葬式を出してもらいたいな~などと都合のよいことを考えています。