我が家の唯一歩いていけるところにあった精肉店が閉店して、もう3年以上経ちました。できたてのコロッケが食べられないのも痛手でしたが、近所にシャッターが閉まったままのお店があるのは、なんとなく寂しい感じでした。
近所に駄菓子屋ができた
ところが最近、その精肉店のシャッターが開き、何が始まったのかと思っていたら、駄菓子屋の看板が上げられたのです。もともとの精肉店の店主夫婦は高齢のため引退、孫たちが駄菓子と一緒にかき氷や唐揚げを売る店を始めたそうです。
駄菓子屋が開店してから、子どもたちが集まるようになりました。どこにこんなにいたのかと驚くほど、子どもたちが駄菓子屋の近辺でたむろするようになったのです。そして、子どもたちが学校に行っている間には、老婦人たちがたむろするようになりました。
駄菓子屋はちょうどサークル活動の帰り道にあり、屋外にはテーブルと椅子が設けられています。コロナ前のように気楽にファミレスなどに行けなくなった老婦人たちに、駄菓子屋は使いやすい場所なのでしょう。
たくさんの人の気配に参る…
最近は家の中にいても、駄菓子屋のざわめきが我が家に伝わってきます。これがどうにも落ち着きません。決して騒音を出しているわけではないのです。ですが、たくさんの人がいる気配というのは、どうしても伝わってくるものです。
私は自分が住んでいるのは、若い人が少なく、活気がない地域だと思っていました。だから、地域活性のためには、みんなが集まれる場所を作ることが正しいのだと思います。コロナ禍で人とのふれあいが減ってしまった子どもたちやお年寄りが喜ぶなら、それも正しいのでしょう。
しかし、この落ち着かなさはなんだろう、と思います。この落ち着かなさを我慢して暮らすのは何だか嫌です。どう考えても、駄菓子屋の存在もそれに集まる人たちも間違ってはいません。それなのに、それが嫌だと思ってしまう私がいます。やはりこういう人間だから、孤独なのかもしれませんね。
前にも似たようなことが
以前、我が家の門の前に子どもの通学を見守るボランティアが立っていたことがありました。それも、とても落ち着かず、嫌な気分でした。せめて、門から丸見えになるところに立たないで欲しい、と思ったものです。
それがコロナの流行で自然消滅したのです。私は正直、ホッとしました。これで我が家の門の前には誰も立たない、と思いました。これも見守りに立つ人たちは間違っていません。しかし、立たれる方の私は本当に嫌でした。毎日毎日、門の前に近所の人が立っているのです(もちろん、誰にも悪気がないのはわかっています)。
今度は家の前というわけでもないし、私が慣れるしかないのでしょう。引きこもりの次女も「ウチの近所に子どもがたむろしていて嫌だ」と言っているので、やはり性格的なものなのだと思います。
う~ん、ずっと営業するのかな、やっぱり…