ネットで記事を拾い読みしていたら、役割意識が強すぎると結局自分の首を締めることになる、という内容が目にとまりました。例えば、男性なら外で稼いでくるのが当然、女性は家事ができなくてはダメだなどは代表的な役割意識です。
それのどこが自分の首を締めるのかというと、そうできない人を責めてしまうだけではなく、自分が役割を果たせなくなったときに、存在意義を失ってしまうからのようです。記事にも書いてありましたが、最終的には多くの命が犠牲になった津久井やまゆり園での事件にもつながってしまう恐れがあると思います(事件の犯人にとって、障害を持っている人は何の役割も果たしていなかったのでしょう)。
いつかは役割を果たせなくなる?
私自身、専業主婦なので家事をやるのが役割だと思っているふしがあり、それができなくなったときのことを考えると、自分の首を締めるというのは身につまされます。でも、実際に人間には何が起こるかわかりません。明日私は事故にあって、家事などできなくなるかもしれません。
そんな大きな出来事がなくても、徐々にこれから年を重ねてできないことが増えていくはずです(少なくとも脚立にのって窓を拭くことはできなくなるでしょう)。そのとき、私は存在意義を失ってしまうのでしょうか。それは困ると思うと、私は夫の祖母のことを思い出します。
敷地内同居をしていた夫の祖母は、年々できないことが増えて嘆いてばかりいました。しかし、私は祖母の若かった頃を知っているわけではなかったため、お年寄りというのはそんなものだろうと思っていました。
そして、自分が祖母を助けてばかりいると思っていたのです。それが間違いだったと知ったのは、祖母が亡くなってから、初めての夏を迎えたときでした。
初めての夏に祖母の力を知った
雑草がすごいのです。もともと昔農家をしていただけあって、夫の実家の敷地はかなり広いのですが、私たちの家の周りだけでなく、祖母の住んでいた母屋の周りまで雑草が生い茂ってしまったのです。私たちが祖母と生活したのは5年間でしたが、それまでそんなことは1度もありませんでした。
初めて私は祖母が度々除草してくれていたことに思い至りました。祖母は大仰に草むしりをしていたのではありません。あくまでも何かのついでといった感じでしたが、そう言えば夏の夕方にはよく祖母が使う鎌の音がチョリチョリと聞こえていました。
祖母は1度に長い時間除草するわけではなかったですが(なにしろ88歳だったので)、それがすべてなくなると、我が家の周りは見事な草むらになってしまったのです。人は皆何かを担っている、これが祖母が亡くなってから、やっと私にはわかりました。私たちは草むしりという点では祖母に助けてもらっていたのです。
祖母が生きているときには当然過ぎて、まったくわからなかった役割。でも、夫はすでによくわかっていたようで、祖母が亡くなってからは度々「年寄りの力はすごい」と言っています。
今でも私は家事ができなくなる日に怯えていますし、外で働いていない自分を役割を果たしていない、と考えることもあります。しかし、祖母が自分でも気づかぬうちに、重要な役割を担っていてくれたのも事実です。だから、もしかして自分も気づかぬうちに、死ぬまで何かを担っていけるのではないかと考えています。そこには少し、希望が見えるようです。
惜しいのは、祖母が自分も役割を果たしているのだと自覚せずに亡くなってしまったことです。祖母はいつも「役に立たなくなってしまった」と自分のことを言っていました。そんなことはないんだと、わかってもらえたら、祖母の最期はもっと幸せだったのに、と残念です。
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