捨てるときは思いも一緒に

生活

先日の資源ごみの日にカーディガンを捨てました。とても気に入っていて買ってから10年以上、よく着ていたものです。もともと薄手で柔らかくて、着心地が良かったのですが、あまりに着すぎたせいかカーディガン全体が伸びてしまっていました。

着心地だけでなく、ペパーミントグリーンとグレーのアーガイルチェックという柄と配色もとても気に入っていたので、多少伸びてもヘタっても気にせずに着ていたのですが、ある日とうとう物としての寿命が来たのだな、と悟りました。

母の思い出があった

捨てることにして、ふと考えました。私がこのカーディガンを捨てられなかったのは、思い出があったからではなかったか。

実は母が最後に入院した時に何を思ったか、突然私のカーディガンを褒めたのです。

お前はいつも安物ばかり着ているけど、このカーディガンはいいわね~。とってもよく似合うわ。

母は口が悪くて、いつもは決して私の着ているものなど褒めません。突然褒められて、私は嬉しいというよりも、戸惑いを感じ、その後には少し寂しくなりました。秋の夕方、夕食の準備が進んで良いニオイを漂わせている病院を私はトボトボと後にしました。

これから帰って自分も夕食を準備しなくてはなりません。気持ちを切り替えて、何を作ろうかと考えているつもりでしたが、やはり私の気持ちは寂しいままでした。

そんな思い出があったから、カーディガンが捨てにくくなったのかもしれません。カーディガンを捨てて、キレイサッパリと母の思い出と決別する覚悟が私にはできていなかったのでしょう。

物と思い出は別だった

しかし、物を持っているから思い出が色褪せないということはありません。いくら思い出のものを大切に保管していても、今の私は毎日の生活に押し流されて母のことはあまり思い出さなくなっています。

逆もまた真なりで、物に頼らなくても自分の気持ち1つで(つまりその人のことを思い出すのです。これには物は必要ありません)、その人の思い出はいつまでも新鮮なままで保つことができるような気がします。

物と思い出は深い関係があるのは事実ですが、だからといって物は思い出そのものになることはできません。思い出はもう、自分の中になるのです。

そう考えて私はカーディガンを捨てました。寿命が尽きたカーディガンは、着てもあまり暖かくありませんでした。薄手だからという理由もあるでしょうが、それでも以前とはまったく違う着心地でした。

私の物への思いとは

考えてみれば母が亡くなってからもう5年以上が過ぎています。人も物も変わって当然です。母の形見と思って、何点か衣類を持ち帰ってきましたが、それもまったく日の目を見ることなくタンスの奥にしまわれています。

私が着ることもなければ、取り出して母を偲ぶわけでもありません。これらもいずれは処分することになるでしょう。今年中にもう1度、資源ごみの日があります。その時に捨てられたら、と思っています。

実際にカーディガンを捨てても、特に何の変化もありませんでした。思い出もそのままです。母が褒めてくれたことも忘れてはいません。だから、もう母に関係するものを捨てても大丈夫なはずです。

私の思いを一緒に捨てられたら、身軽な気持ちで新年を迎えられるのではないでしょうか。私の思いとは、母への思いや思い出ではなく、思い出をなくすのが怖いという執着心だったのです。

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