昨日の記事を書いて、更に考えました。自分と違う人と友だち付き合いをするのは結構苦しいことですが、結局みんな違います。自分と違う人のことを人はどれほど尊重できるのでしょうか。
私は現在まったくと言って良いほど友だち付き合いをしていません。しかし、先日ご近所さんが亡くなったことで、人はみんな違うのだということを実感。そして、自分とは違う人のことを人は尊重できないのではないかとも実感したのです。
葬儀の手伝い・みんな考えが違うとわかった
私が住んでいる地域では、葬儀を自分の自宅で行うのが常識でした。夫の祖母が亡くなったのが25年前ですが、葬儀は祖母の自宅(我が家と同じ敷地内にあった夫の実家です)で行いました。
自治会の班員が男女を問わず手伝いに入るのも常識でした。男性は受付のためのテントの設営やお金の管理、女性は調理や配膳、後片付けなどの台所仕事が担当です。
しかし、祖母の葬儀のときにはほとんど調理らしいことをせず、仕出しの料理を利用して、近所中から画期的だと言われたのです(もしかして嫌味だったのかも…)。
仕出しの料理を利用するだけで画期的と言われる土地柄ですが、祖母の葬儀の後、どこの家でも葬儀は別の会場で行うようになり、結果的に台所仕事を手伝う必要もなくなりました。
結局男性がやっていた受付などの仕事だけが、自治会の班員のお手伝いとして残りましたが、昨年我が家の遠縁の女性が亡くなったときには、そのお手伝いすらもう結構です、と遺族に言われたのです。
どっちも悪くないけど
今回、ご近所の女性が亡くなり、遠縁の女性の遺族も自治会の班員として打ち合わせに参加しましたが、「家族葬と聞いていたが、受付が本当に必要なのか?」などと疑問の言葉を投げかけていました。
遠縁の女性の遺族は、せっかく簡素化した葬儀の手伝いが、これでまた元の状態に戻ってしまうのではないかと危惧したのかもしれません。その気持ちが語気をほんの少し強くしたように、私には思われました。
しかし、今回亡くなった女性の遺族(特に息子)は、古くからのこの地域のしきたりを大切にしたいという気持ちが強かったようです。班員には手伝いを頼みたいし、葬儀に参列した班員には火葬場まで一緒に行って欲しいと思ったのでしょう。
葬儀を簡素化したい、だから昔ながらのことをするのに抵抗があると思う人は、自分で葬儀に出席をせずに子どもなどを代理に立てるのが無難だと思います。
そしてそう言われた方は(今回亡くなった女性の息子)、相手の言うことをそうですか、と聞き入れる必要があるのではないでしょうか。いくら自分が昔ながらの葬儀を望んでも、相手が通夜は参列できないと言っているなら、どうしてもと強要はできません。
葬儀ですらこうなのだから…
葬儀という、ある程度枠にはまったことですら、これほど人によって違いがあるわけです。しかも葬儀というのは、人として避けては通れないことです。
仲間はずれの意味で村八分という言葉を使いますが、葬儀のときは別だったそうです。どんな人であっても、葬儀をおろそかにしてはいけないと昔から考えられていたのです。
しかし、友だち付き合いってどうでしょう?これは自分の好きですることで、葬儀よりもずっと自由です。葬儀に対する考えの差は我慢して折り合いをつけるかもしれませんが、友だちとの違いにそこまでする人はいないかもしれません。
別に今回葬儀の打ち合わせでケンカになったわけではありません。しかし、気まずい雰囲気になったのは事実です。
本当に自分と人の違いを受け入れ、尊重することは難しいです。傍から見ていると、どうしても自分に合わせて欲しいという気持ちが透けて見えるような気がします。
長い時間をかければ変化はあるかも
しかし、かつて我が家で仕出しの料理を使って画期的と言われたことが、今では普通のことになっています。長い時間をかければ、違うと思っていたことが当然のことになるかもしれません。
焦らず長い時間をかければ、人との違いは埋められて、友だちができるかもしれませんね。まあ、あまり長い時間をかけると、私たちの年代では誰もいなくなってしまうとも思うのですが…