お祭りに3000円のお祝いを出すために、わざわざ外出!どんなものにも価値があることを思う

お祭り 1000円札 生活

今日は夫が参加している団体(私設の青年団のようなもの)が主催する夏祭りが行われます。この数年間はコロナ禍でできなかったため、久しぶりの開催に夫も身体が追いつかない状態だと言っています。この団体が地域の囃子連を招いたそうです。祭ばやしで賑やかさを演出したいのでしょう。

夫は囃子連にも参加しているため、囃子連と団体を取り持ちたいとの気持ちからお祝いを包むことにしました。お祭りのときに包むお祝いは、年齢によって金額が決まっているようですが、今回は3000円にしました。それは良いのですが、なぜか必要なときに限って1000円札がありません。

1000円札を求めて外に出る

夫はもうお祭りの準備で大忙しですから、仕方なく私が自分の軽自動車にガソリンを入れて1000円札を捻出することにしました。しかし、昨今のガソリンの値上がりで思った以上に金額が嵩んでしまい、お釣りが1000円札1枚と5000円札1枚ということに。

さらに仕方なく、何も買いたくないのにコンビニエンスストアに行ったのです。そこで欲しくもないパンやお菓子を買ってやっと財布の中の1000円札が4枚になり、無事に祝儀袋に収めることができました。

普段、買い物をしていてお釣りが1000円札だけになるとき、必ずレジの人にはこう言われます。「1000円札だけのお返しになりますが、よろしいですか?」
釣り銭が7000円や8000円になるとき、1000円札だけでは財布の中でかさばるからわざわざこんなことを言うのでしょう。まあ、大量の小銭が嫌われるのと同じですね。

最近はなかなかお店で両替をしてもらうこともできません。しかし、確実に1000円札が必要なときと言うのがあるのです。実際に私は今日、1000円札を作るためだけにガソリンスタンドとコンビニエンスストアに行きました。

どんなものにも存在価値があることを再確認

中国などではお賽銭やお祝いなどもすべてキャッシュレスで支払うそうですから、私のような思いをする人はもういないのかもしれません。しかし、日本ではまだまだお祝いやお香典などは現金で袋に入れて手渡します。1000円札の存在意義があるのです。

1000円札のことを考えるとき、どんなものにも存在する価値があるのだと思うとそれが何だか私につながるような気がしてきました。確かに誰にでも必要とされるときがあるのかもしれない、と思うと私にも何かができるような気がしてきました。

この数日、夫の弟からの電話などで私も精神的に不安定になっていました。やはり私もいくらかでも働いて収入を得る道を探すべきではないかと思ったのですが、年齢のことやかつてパートで働こうとしてうまくいかなかったことを思い出してもんもんとしていました。

しかし、どんなものにでも存在価値がある以上、私にも何かがあって働ける場所があるかもしれません。何かを買おうとするとき、1円でも足りなければ買うことはできません。それが1000円ならなおさらです。お祝いを包むことで、改めて1000円札の価値、そしてすべてのものの価値について考えることができました。

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