このブログでも何回も書いていますが、我が家の次女は大学2年生の前期で中退して、それからずっと引きこもり生活をしています。
次女は幼いときから、たまに発する一言が私の心に残ることがありました。引きこもり生活になってからも、一言に感心させられることがあります。
ジャガイモを捨てた私に
先日、次女が私に言ったのがこれです。
死体処理だね。
先日、私は大量のジャガイモをゴミとして捨てました。いつも親戚が大量の野菜をくれるのですが、4人家族で食べ切れる量ではありません。ジャガイモもダンボールで2箱もらったのですが、芽が出てしまいました。
いつも思うのですが、食べ物を捨てることほど嫌なことはありません。食べ物を無駄にしている罪の意識、料理しきれなかった自分を駄目だと思う気持ち、そして大量のゴミを捨てる面倒臭さなどで、私はとても疲れてしまいます。
嫌だな、疲れたなと思いながら家に入ると次女がいたので、私はつい自分が何をしていたかを話しました。それに対して次女が言った一言がこれだったのです。私は自分の嫌な気持ちをうまく言ってもらったので、少し気分が良くなりました。
自分で自分の気持ちがわからず、モヤモヤしている状態はとても嫌なものです。すでに嫌なことがあったのに、さらに嫌になります。そんなときに、的確に言語化してもらえると、それだけで何も解決していないにもかかわらず、気持ちがスッキリするのです。
引きこもりは何かを手に入れているのでは?
何回かこういうことがあって、私は次女は鳥の目を持っているのではないかと思いました。
私は次女を見ていて、子どもの頃に読んだ、推理小説に登場したおばあちゃんを思い出したのです。そのおばあちゃんは確か家で編み物をしながら、話を聞くだけで事件を解決していました。
このおばあちゃんは引きこもりとは違いますが、年を取ると若い時と同じように行動するのは難しくなります。自分の意志に反して、家にいることも増えるでしょう。しかし、そのおばあちゃんは現場を知っている若い人は気に留めないことから、真相に迫るのです(私の記憶が正しければ、ですが)。
現場を知っている人が気づかないことに、家にこもっている人が気づく、これは家にこもっていることで、何かを手に入れたように私には思えます。家にこもることで、そのおばあちゃんは現場の雰囲気に左右されず、自分で考えることができたのではないでしょうか。
私は子どもの頃、おばあちゃんはすごく頭が良いとか、何か特殊な能力を持っているのではないかと思っていました。しかし今ではおばあちゃんは、家にこもることで物事を俯瞰で眺められたのではないかと考えています。つまり、家にいる時間が多いと、鳥の目を手に入れられるのです。
そして、もしかして我が家の次女もおばあちゃんよりも、もっと世間から隔たって生きているが故に、鳥の目を持つようになったと思うのです。
引きこもりの特性が活かせれば…
世間から隔たったところに生きているのは何も引きこもりの人だけではありません。そんな人の視点を何かの役に立てられたら良いのに、と思いますが、一体何の役に立つのかまだわかりません。
引きこもりになる人だけの良いところがきっとあるし、引きこもりになることによって得るものもきっとあると私は感じています(決して引きこもりだけど、良いところがあるではなく、引きこもりだから、なのです)。いつかそれが活かせるはずだと信じて、今日も生きていこうと思います。