千羽鶴をウクライナに届けて、良いことをした気になるのは間違いであるという発言が注目されているようです。私が子どもの頃だけでなく長女が小学校低学年くらいまでは、千羽鶴は入院した同級生に早く良くなりますように、との願いを込めて贈るものでした。
千羽鶴は気持ちの現われのようだ
子どもだった私は、『これ、もらった後はどうするんだろう?ジャマにならなきゃ良いけど』などと考え、密かに心配をしていたのでした。きっと捨てにくいだろうし…しかし、夫の祖母などは孫が入院したときに、千羽鶴をもらって嬉しかった、心配していた気持ちが少しラクになったと話していたので、由来を知っている人には心は通じるのだと思います。
だから、ウクライナの方々にも日本の千羽鶴を見て、遠くから自分たちのことを気にかけてくれる人たちがいる、世界中がこの戦争の成り行きを見ているという事実が伝わるような気がします。もしかして、その千羽鶴を見て、ひととき見たこともない国を想像して心が晴れるかもしれません。
大体私を含めた普通の人々にとって、違う国を支援するのは想像以上にハードルが高いと思います。例えば募金をするとしても、どの団体を選べば良いのか、金額はどの程度が良いのか、そして自分が募金したらそれが確実に自分が助けたい人たちの元に届くのか、など考え出すとキリがなく、結果として何も動けないということはあるはずです。
しかし、何も動かない人も何も考えていないわけではない、せめて気持ちだけでも表したいという思いが千羽鶴になったのでしょう。千羽鶴を贈る活動をしている人たちの何割かは、今後自分に適した支援の方法を見つけられるかもしれません。
大多数の日本人は千羽鶴すら贈っていない
だから、千羽鶴を贈る人たちのことをこれほど批判しなくても良いのです。大多数の日本人は私のようにただ報道を鵜呑みにして、「暗い気持ちになる…」などと言っているだけです。それに比べれば、千羽鶴を贈る人たちは一歩前に踏み出しているわけで、とても立派です。
特に「千羽鶴を贈っていい気になっている人たちは狂気じみている(概要です)」というような発言には、首を傾げるばかりです。千羽鶴を贈る人たちのことをこれほど非難しなくては気が済まないご本人の方が狂気じみている、と感じてしまうのは私だけでしょうか。
受け取ったウクライナの人たちが、千羽鶴よりも〇〇が欲しいと訴えるなら耳を傾けなくてはなりませんが、安全な日本にいながら人の活動をとやかう言うのはどうかと思ってしまいます。
「どうか戦争が早く終わりますように」とSNSを使って、世界に向けてメッセージを発信しても、別に非難はされないでしょう。千羽鶴はこのメッセージと同じことです。まあ、千羽鶴を贈るときには、意味や由来も一緒にお知らせしないと、これは何だということになるかもしれませんが、こんなことはもうとっくにやっているのだと思います。