マスクの着用が来月には、個人の判断に任されるようになるそうですね。今までもマスクの着用は推奨されていることであり、決して強制されるものではなかったはずです。
だから私は今までも、マスクの着用に個人の判断が反映されていると思っていました。例えば1人で道を歩いていて誰とも話をしていなければ、マスクはしなくても良いだろうというように。
マスク着用の緩和は政府の丸投げ?
しかし、実際に都心など人が多い場所で働いている人などは、個人の判断を反映させる余地はなかったようです。職場でみんながしているから、私もせざるを得ないと考える人がたくさんいたのだと思います。だから政府がわざわざ、マスクは個人の判断で着用するようにお達しを出すのでしょう。それでも私は不思議で仕方がありません。
今まで政府がマスクをするように強制していたのなら、マスクを外す時期に何らかのアクションを起こすのは当然ですが、強制でなかったものなのに、これからは個人の判断でお願いしますというのは、私たち国民にマスクの着用、強いては新型コロナへの対応を丸投げしているように思われるのです。もし、マスクをしていなくて、コロナに感染してもそれは自己責任になりますよ、と言っているようにも感じられます。
しかし、みんながマスクを外すというのは、新たなチャレンジかもしれないとは思います。これからもずっと外ではマスクをつけ続けるつもりはない限り、いつかはマスクを外して生活をしなくてはなりません。みんながマスクを外したとき、コロナの感染者は増えるのか、それとも変わらないのか、それを確かめる機会にすれば良いのではないでしょうか。
マスクをつけない人が増えることで、一時的に感染者が増えたとしても、それで集団免疫を獲得できれば、私たちは本当にコロナウイルスと共存できるのかもしれません。
さらに心配なことは?
ただ、人々がマスクを外し始めるときに気をつけなくてはいけないこともあると思います。かつてマスク警察と呼ばれる人々がマスクをしていない人を罵倒した、などという話がありました。今度は逆のことがあるかもしれません。事情があってマスクをつけている人がいわれのない差別を受けるのではないかという心配です。
菊池寛の作品で「マスク」というタイトルの短編小説があります。これは今から100年ほど前、スペイン風邪が流行したときの作品で、菊池のマスクに対する思いを描いています。彼は健康不安を抱えていたために、スペイン風邪を極度に恐れ、予防に努めていました。もちろんマスクを着用していたのですが、感染が落ち着き、人々がマスクを外しだした初夏のある日、野球を観戦に出かけた菊池は黒いマスクの男性を見かけます。
菊池にとってマスクの男性は良い印象ではありません。爽やかな初夏の日に、スペイン風邪を思い出してしまったことへの怒りすら感じています(怒りは自分にも向いています。菊池はまだスペイン風邪を恐れているにもかかわらず、皆がマスクをしていないからという理由でマスクを外してしまったからです)。
この作品では人がその他大勢や季節の移り変わりに流されやすいだけでなく、辛い思い出を感じさせるもの(ここではマスク)を忌み嫌い、封印したがることがわかります。菊池のように自分を客観的に見て、なぜ嫌なのか理由を考えられる人なら良いですが、自覚なくマスクを忌み嫌う人が出てくると困るな…と思うのです。
世の中には様々な事情を抱えた人がいて、マスクをつけられない人がいる一方でマスクをつけた方が楽になれる人もいます。私も先日はマスクのありがたみを実感しました。
どんな事情を抱えた人も楽に生活ができるようになると良いな、と思っています。この機会に日本人もお互いの個性を尊重することを覚えられれば、コロナ禍もムダではなかったのではないでしょうか。
それにしても、マスクの着用が個人の判断に任されるようになるのは5月8日でしょうか?4月や3月という報道もあり、ごちゃごちゃで面倒くさいです。どうせなら、もっとビシッと言えばいいのに…