今日は3連休の最終日です。叔母の四十九日法要があるため、夫は休みをとって、朝9時に出かけていきました。叔母の葬儀があったのは9月25日のことです。
亡くなる前と後では時間の流れが違う
誰かが亡くなるたびに感じますが、葬儀の後は時間の流れが早くなったと勘違いするほど、あっという間に四十九日法要の日がやってきます。
私が結婚してから、夫の祖母の姉(生涯独身で夫の実家に一緒に住んでいた)、夫の祖母、私の父と母が亡くなりましたが、葬儀の後はみな同じように感じました。
亡くなるまでは時間はジリジリと少しずつしか進まず、もう永遠にこのままではないかと思ったのに、亡くなった後はその分まで一緒に流れていくかのように、時間が早く進むのです。
誰かが(もちろん私も含みます)亡くなったところで、生きていく人たちの時間は関係なく進んでいくということなのでしょう。このことを実感すると、寂しいような気もしますが、反面だからあまり自分が死んだ後のことは気にしなくても良いのだとも思えて、気楽な気持ちにもなります。
自分が看取ってもらえると思わない方が良い?
叔母の葬儀のとき、とても具合が悪そうだった叔父はどうしているでしょう。少しは元気を取り戻したでしょうか。夫は心配していますが、同時に「もう、90歳近いんだから、元気を失ってしまっても仕方がない」とも言っています。
ただ、90歳に近かったからこそ、叔父は自分の方が先に亡くなる、すなわち自分が看取ってもらえると思っていたのでしょう。それなのに叔母があっけなく亡くなってしまった事実が叔父を打ちのめしているように思われます。
叔父と叔母は5歳の年齢差がありました。それでも、どちらが先に亡くなるかはわからないもののようです。我が家の夫と私は1歳差です。
最近になって、どちらが先にどうなるかわからないから、覚悟だけはしておこうと考えていましたが、これはもしかすると、年齢差があってもなくても、しておかなければいけないのかもしれません。
私の場合、私が先に亡くなれば、相続も夫から娘たちにする1回だけで良いです。逆に夫が先だとまず私に相続して、その後娘たちに、ということになるかもしれませんから、やはり私が先に亡くなる方が楽だよな~、などと考えてしまいます。
最期まで夫たちをあんじてくれた叔母
まあ、なるようにしかならないので、あれこれ考えても始まりませんが…今日の四十九日法要で、夫の心も一区切りつくと良いです。叔母は最期、うわ言のように夫の弟たちの名前を呼んでいたそうです。
叔母には特に何も話していなかったのに、何かを察していたのでしょうか。次弟は離婚も成立していないのに、不倫相手と暮らし続けてもう20年近くになります。末弟は精神を病んで退職。その後脳梗塞の発作を起こし、まだ後遺症があります(私にはよくわかりませんが)。
そんなにも夫たち3人兄弟の行く末を案じていた叔母。亡くなって夫もがっかりしたでしょうが、この先、私たちだってあっという間にあの世に行ってしまいます。みんな同じ道をたどるのですから、そうがっかりすることもないかもしれないですね。