先日、お茶会をするからと誘ってくれた親戚。関係は夫の又従姉妹にあたり、近い親戚とは言えませんが、近所に住んでいるため以前はよく行き来がありました。
特に夫の祖母はこの女性の両親(祖母にとっては甥とその妻)にとても依存していたので、とても世話をかけました。夫だけでなく、私にも女性の両親への感謝の気持ちが今でもあります。
最期のお別れができずに心残りだったが
女性の父が亡くなったのは、まだ世の中がコロナ禍に突入する前で、通常通りの葬儀を行いましたから、私も最期のお別れができて心残りはありませんでした。しかし、女性の母が亡くなったときはコロナ禍の最中で、通常の葬儀などは一切なく(家族だけで行ったそうです)、年末になって届いた喪中はがきで死を知ることになったのです。
葬儀に一切他人を招かなかったのは、コロナのせいもありましたが、女性の母が望んだことでもありました。葬儀にかかる多額の費用、家族の負担などを考えると極力何もしないで良いと思ったのだそうです。戒名も授からなかったと言いますから、それは徹底したものだったのでしょう。
私も夫も女性とその家族の思いを尊重することにして、あえてお線香を上げに行くなどということはしませんでした。しかし、今回お誘いを受けたとき、お茶会のときは実家に来て欲しいと言われました。そこで、せっかく仏壇がある家に行くならお線香を上げさせて欲しい、できることなら何か小さなものをお供えにしたいと思ったのです。
電話でそれを伝えたのですが、帰ってきたのはこんな言葉でした。
今日はみんなが来るから、仏壇の扉を閉めてあるの。そんなこと気にしないで来てよ~。
心残りと言えばキリがないから
そう言われてしまうと、いくら親戚とは言え、もう又従姉妹の関係です。無理強いもできず(するつもりもないけど)「わかりました」と返事をするしかありませんでした。ただ、女性が私の願いを聞き入れて、仏壇に手を合わせればそこからまた、お盆だお彼岸だと何らかのやり取りが始まらないとも限りません。
お世話になった女性の母に、何のお礼も言えなかったのが心残りではありますが、何かを終わらせるときはこのような痛みを伴うのかもしれません。私が女性の母の死を初めて知ったとき、最初に思ったのはなぜ知らせてくれなかったのか、ということでした。
お盆だお彼岸だご葬儀だという付き合いが嫌でたまらないと思っていたくせに、いざ知らせてもらえないと「なぜ」と思ってしまうのです。知らせてもらえないことで、もうお付き合いをする相手として見てもらえなくなったと考えてしまうのです。
誰でもこう考えるのが嫌で、結局は嫌でたまらないことを我慢して続けてしまうのかもしれません。しかし私たちの場合、今回ここでお付き合いを終わらせないと、お互いの子どもたちの代になってしまいます。
だから、女性は自分の手できっちりと終わりにしたかったのだと思います。私も心残りと思う気持ちを我慢して飲み込む必要があるのでしょう。
新しいお付き合いが始まる?
ただ、よく考えてみると子どもたちの代になったら、こんなお付き合いは自然消滅するに違いありません。私たちの子どものうち1人として、お盆やお彼岸にはこの家にお線香を上げに行くなどと承知している者はいないのですから。
まあ、女性はそれでは嫌だったのでしょう(私もお付き合いにおける自然消滅はちょっと嫌です)。もしくは、これからは親戚づきあいではなく個人対個人としての付き合いを始めようという意思表示なのでしょうか。