この期に及んで、オリンピック関係者にスキャンダルが浮上、辞任する騒ぎになりました。作曲家として参加していた男性が、学生時代にひどいいじめをしていたことが発覚したのです。
この男性が起用されると決定した瞬間から、さまざまな方面で彼の起用は平和の祭典であるオリンピックにふさわしくないという意見が噴出しました。
いじめは武勇伝のように語られていた
彼がいじめをしていた証拠は、ある雑誌のインタビュー記事です。そこに自身が過去に行ったことを細かく語っていたのです。私は概要しか読んでいませんが、多くの人が語っている通り、犯罪と言ってもよいようなことが、自慢気に語られていました。
よく、いじめる側の人が「じゃれているつもりだった」とか「いじめという認識はなかった」などと言っていることがあります。普通は自分のしたことが認められずに、いじめのつもりはなかったなどと逃げを打つわけですが、彼にはハッキリとした認識があったようです。
自分のしていることがひどいとわかりながら、それを行い、後日武勇伝のように語る姿には思わずサイコパスという言葉が浮かんでしまいました。
オリンピックに関わるのは償いだったのか
彼はオリンピックの開会式と閉会式をより良いものにすることで、少しでも世の中の役に立ちたいと考えたのかもしれません。それが罪の意識を抱えた彼なりの償いのやり方だったのかもしれません。
しかし、それは同時に彼が公の場に登場する機会が増えることになります。いじめを受けた人にとっては、彼を見ることで過去の辛い記憶が蘇るきっかけになるかもしれません。自分という人間が登場するだけで、誰かの辛い記憶を呼び起こしてしまうことがあるのだとまでは彼はわかっていなかったのでしょう。
自分のしたことが良いか悪いかと聞かれたら、多分彼はちゃんと悪いことをしたと言うことでしょう。しかし、感じる温度が違っていたのだと思います。自分はちょっと熱めのお湯を引っ掛けたつもりだったのが、相手にとっては煮えたぎる熱湯をかけられたということだったのだと思います。
熱湯をかけられた方はたまったものではありません。大火傷を負って、今でもそれが傷んでいるかもしれない、消えない跡が残ってしまったのかもしれないのです。
その事実を認識した今の方が、彼は罪の意識を感じているのかもしれません。
自分のこととして考えると怖い
ここまで考えると、自分自身についても考えてしまいます。誰でも彼ほどのことをしていたら、それは忘れられないでしょう。しかし、自分でそれほどのことと思っていなくても、人にとってはひどいこと、傷つくようなことを絶対にしていないと言いきれるでしょうか。
そんなつもりじゃなかった、と言いたいことは1つもないでしょうか。考えると怖くなってきて、ますます引きこもりに拍車がかかりそうです。
彼の人生は今後どうなるのか、知りたいです。彼が自分のしたことに苦しみ、もがくことで、私たちは人間ってどんなものなのかがわかり、私の怖さも少し解消するのではないかと思っています。