このブログ記事を読んで、私にも覚えがあるな~と思ったのが、他人の課題に踏み込まないということを家族に言われた経験です。
ブログ記事を書いているグリコール・グリコさんは、夫シンジさんと遺品(シンジさんの父親が遺したもの)の写真整理を巡って対立してしまいました。そんなとき、娘さんからそれはシンジさんの課題だから、深追いはしない方が良いと諭されたということです。
次女に切り捨てられる
私は次女に言われました。引きこもりを続けている次女の将来が心配だから、早く何とかしなくては、という内容のことを話しているとき、言われたのです。
それはママの問題じゃなくて、私の問題でしょ。ママが悩むことじゃないよ。
確かにそうです。私の力で次女をどうにかすることなど、できません。しかし、私や夫など家族が働きかけをすることで、少しでも次女に良い作用があればとの思いもありました。それに私には黙って見守ることと、放任していることの違いもよくわからなかったのです。
あまりにも周りの人間が何も言わないことで、次女が現在の状況に疑問を抱かなくなるのではないか、とも思いました。また、何も言われないことが結局自分のことを家族が見放したと思いはしないか、とも考えてしまったのです。
自分の課題と他人の課題を見分けるのが難しい!
私の実感では、母親というのは他人(家族も含みます)の課題に踏み込みやすい存在です。他人の課題に踏み込むことを極端に恐れていては、小さな子どもを育てられないと思います。
自分の子どもが元気がないとき、その原因が友だちとのトラブルだったら、母親は細かく事情を聞いて、何とか解決しようとするのではないでしょうか。小さな子どもだって、ケンカの原因を話したくないこともあれば、自分がいじめられていることを隠したいと思うことがあるでしょう。子どものケンカは子どもの課題なのだと思います。
しかし、大人はそれを切り離して考えることができません。子どものケンカは即、自分の課題になります。こうして子どものケンカに大人がしゃしゃり出ることになるのです。小さな子どもと大人は違うと言われるかもしれませんが、小さな子どもが徐々に大人になるのです。
気がつくと小さな子どものときと同じ調子で息子や娘の課題に踏み込んで、それが親切や思いやりのつもりでいる人はきっとたくさんいるはずです。考えてみれば、昔の親がよく言っていた「良かれと思って」とか「あなたのためを思って言っているのよ」などの言葉は、他人の課題に踏み込むための免罪符のようなものだったのでしょう。
そういえば自分も嫌だった
私の夫もよく私(私だけではないと思う)に「お前のことを思っているから言うんだ」と言っていました。それが私には不快でたまりませんでした(ものすごく抗議をしたので、今は言いませんが、夫は決して納得していないと思います)。
自分の領域にズカズカ入り込まれるような感じとでも言えば良いのでしょうか。不思議なことに自分の課題を他人に担ってもらえれば、楽で良いかというとそんなことはないみたいです。
課題は自分の分だけを担い、他人のものには手を出さないように気をつけるのが自分にも他人にも優しい生き方なのかもしれません。
グリコさんもいまだにこれは誰の課題なのか、悩むことがあるそうです。みんな最初からできているわけではないのですから、私も諦めずに他人の課題に踏み込まないことをやっていきたいと思っています。
気をつけないと、娘たちだけでなく、夫の弟の課題まで自分のことのように感じられてきます。いくら何でもそんなに背負いきれませんから、自分の課題だけを徹底するしかないのです。それができるようになったとき、私は完全に子離れして、自立した大人になれるのではないでしょうか。