先日難病の患者さんに大量の鎮静剤を投与して、死に至らしめたと医師2人が逮捕されたと報道されました。
難病の女性の死
亡くなったのは50代の女性で、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気でした。これは名前の通り、体の筋肉が痩せて力が入らなくなる病気です。最終的には食べ物を飲み込むことや呼吸をすることも不自由になります。現在の医学では効果的な治療法はないそうです。
亡くなる前、すでに女性は体を動かすことができず、意思の疎通は眼球の動きで操作できるパソコンに頼っていたそうです。女性はブログを開設して、「早く楽になりたい」などとALS患者としての率直な気持ちを綴っていました。
彼女の死後、同じ患者である男性が彼女の一見死にたいとも受け取れるメッセージは、生きたいという気持ちの裏返しなのではないかという意見を新聞に寄せていました。彼の意見を私はこのように受け止めました。
現代の社会が健常者が生きることしか認めていないから、彼女は自分が生きられないと実感して、自ら死を選んだのではないか。
すると彼女を死に至らしめたのは、2人の医師だけでないということになります。私たちにも責任の一端はあるのです。
生きる権利があるなら、希望が持てるように
私の父も49歳のときに脳卒中で倒れ、回復したものの右半身の麻痺と言語障害に一生付き合いました。父が変わってしまったことを私を始め家族が受け入れるまで、とても時間がかかりました。でも、今考えると一番受け入れるのに時間がかかったのは本人である父でした。
しかし父にはリハビリをすれば、今よりは良くなるという希望がありました。完全に元に戻るのは無理でも、今より良くなるのなら、と父は希望を持ってリハビリを行うことができました。
女性はその希望を持つことができなかったのでしょう。でも、意識はしっかりしているそうですから、自分の現状とこれから向かう先が見えてしまいます。これがどれほど辛いことなのか、私には考えられません。このような病気の患者さんには体のケアと同じくらい心のケアが大切になるのではないでしょうか。
亡くなった女性のお父様は娘は死にたいとは言っていなかったと語っていました。それは女性の優しさだったのでしょう。自分のことでこれ以上父親を悲しませたくなかったに違いありません。
やっぱり止めたと思っても間に合わない?
女性がたとえ本気で死にたいと願っていても、そのときになったら気が変わったりはしなかったのかと私は疑問を持っています。人間は死ぬときは、生まれて初めての体験をしているわけです。自分の想像とは違っているかもしれません。やっぱり止めたい、まだ生きたいと願っても間に合わなかったのかもしれないと考えてしまいます。
私の母は79歳で亡くなりましたが、直前には目を見開き、何かに驚いたような顔をしていました。ましてや50代の人が自分で死を選んだときに本当に穏やかな最期を迎えられるのか、私はとても心配です。
決して女性の選択を安易だとは思いません。無理もないとすら思います。でも、死ぬ権利を主張してこのような死が増えることが、逆に生きる権利を侵害しないのかと不安になります。
なんだか中途半端でモヤモヤした気持ちです。考えても結論が出ないこともあるのです。もし私が同じ立場だったら、どうするでしょうか。私が生きたいと願ったとき、誰もそれを受け入れてくれなかったら、と考えるとまたモヤモヤしてきます。
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