終活で切られた隣家の松の木・別れを決断した主の心を思う

生活

我が家の南隣に建つ家の門には、昨日まで立派な松が植えられていました。隣の家の主と夫の父親は同い年で何かと行動をともにすることが多く、その松の木も夫の父親と同じところから購入、同時期に植えられたそうです。

対象的だった隣家の松と我が家の松

それが今から50年も前の話ですが、夫の父は40歳を迎える前に交通事故で亡くなり、松の木は立ち枯れてしまいました。別に松の木が後を追ったというわけではなく、一家の働き手を失った夫の実家では生活のために敷地内に小さな工場を作り、人に貸すことになりました。その工場の換気扇の出す排気が常に松の木にあたり、寿命を縮めてしまったようです。

我が家とは対象的に、隣家の松の木は良い枝ぶりに成長しており、主も手入れを欠かしませんでした。主は今年90歳になるそうです。かつては主自らが松の木を剪定していましたが、いつしかそれが業者に任されるようになり、その業者も間遠になったと思ったら、昨日はまるごと1本伐採されてしまったのです。

今までずっとそこにあり、これからもあるであろうと勝手に思っていたものが突然切り倒される、これには私も驚きました。木を切るチェーンソーの音がまるで悲鳴のように聞こえたのです。

私は我が家の窓からその様子を覗いていて、これも終活なのかな…と思いました。主には大切な思い出のある木ですが、子どもや孫にはそうではありません。松の木はこまめな剪定が必要なため、そのままにしておけば手間とお金がかかるのです。主は前もってその負担を減らしておこうと考えたのではないでしょうか。

珍しく夫も同意見

その松の木のことを夫は常々気にかけていました。自分の父親にもつながる木だからだと思います。仕事から帰ったときに「〇〇さん、松の木を切ってしまったよ」と伝えると私が思っていたこととほぼ同じことを言ったのです。生きているうちにきちんと始末をつけたかったのだろうと。

私も主が松を大切にしていた姿を見ているだけに、決断は辛いものだっただろうと思います。しかし、これで間違いなく隣家の主の憂いは1つ取り除かれたのです。誰かが亡くなった後、残された人がゆかりのあるものを処分するのはとても辛いものです。主の決断で子どもや孫の辛い思いは1つ軽減されるわけです。

松の木を切った後はとてもスッキリしています。1本の松の木が今までかなりたくさんのものを覆い隠していたことがわかりました。風呂場やトイレの窓が丸見えになっています(中が見えるわけではないけれど、ちょっと気まずいです)。けれど、このスッキリし過ぎの状態が主の心の内を表しているようにも思えます。そのうち私も松の木がない状態に慣れるでしょう。

人間はいろいろと大きな買い物もしますが、どれも永遠ではなく別れのときが来ます。だってどんなものもあの世に持っていくことはできないからです。別れの辛さに負けてしまうようなら、そもそもそのものを手に入れる資格がないのかもしれません。松の木が切られたことでいろいろと考えてしまいました。

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