昨年の12月に「12月のお別れ」という記事を書きましたが、1月16日の現在までに我が家の近所では計4件のお葬式がありました。今年は暖冬だから、過ごしやすいのかと思いましたが、人生のお別れとは関係がないようです。こういうことは、重なると何だかいろいろと考えてしまいます。
お別れが多くても、不思議ではない状況
私たち家族が、夫の実家の敷地の一角に住むようになったのは、今から25年前のことでした。私は、引っ越しをしてすぐに30歳の誕生日を迎えました。まだ次女は誕生しておらず、長女は1歳でした。その私が、もう孫がいてもおかしくない年になりました。引っ越ししてきた当時に、元気な中高年だった人が亡くなってもおかしくはないのです。
同じ敷地内で暮らしていた夫の祖母と祖母の姉も、亡くなってから20年がたちます。確かに生きていた人たちですが、亡くなってしまうと段々と話題に登ることもなくなり、静かに忘れ去られていくようです。あんなに祖母になついていた長女も、もうあまり覚えていないようです。誰もその人のことを覚えていなくなったら、本当に死んだということだと、どこかで聞いたことがありますが、まさにそのとおりだと思います。
死が身近になった
引っ越ししてきてすぐには、たとえお葬式があってもそれは特別なことでした。死はずっと先のことで、自分とはあまり関係のないことでした。でも、ここへ来て一気に4件のお葬式があり、とても死が身近に感じられるようになりました。私も必ず死ぬ実感が出てきました。
今日私はたまたま用事があって、近所を一回りしました。お葬式が終わるまでは、非日常という感じだった家も、今ではすっかり日常を取り戻したように見えます。残された人たちは、今まで通り生きていかなければならないので、それが当然です。
お葬式があった家の前を通り過ぎながら、死んだり生まれたりしながら、世の中は続いて行くんだな、と妙に感じさせられました。人生が過ぎるのは意外に早く、死が近付いて来たときに、こんなはずじゃなかったといっても、どうにもならないでしょう。
自分が死ぬことがわかったときに
私は日常を取り戻したように見える家を眺めながら、数年間引きこもって、家の中だけで生きている次女のことを考えました。次女が私の年になったときに、一体何を考えるのだろう、何をして生きているのだろう、と不安が湧いてきました。次女の問題は、次女が解決するしかありません。親が解決してやることは、押しつけでしかないでしょう。わかっているのに、不安になってしまいます。
自分も必ず死ぬ、これは誰でもわかっているようで、若い人には実感できないことに違いありません。これがわかったときに、次女が前向きであって欲しいと願ってはいますが、これもどうにもならないことなのでしょう。私や夫が亡くなった後に、次女には淡々と生活をして、次の時代へと移って欲しいと願うことは親のエゴなのでしょうか(ちなみに長女は現在漫画家を目指しながら、アルバイトをしています。それなりに人生を楽しんでいるようなので、とりあえず心配はしていません)。
多すぎるお別れは、私に考える機会をくれましたが、もうお葬式は十分です。
今年は当分、何もないことを願っています。