俳優でコメディアンの小松政夫さんが亡くなりました。私たち中高年世代にとっては、子ども時代に見た小松さんが懐かしい記憶になっているのではないでしょうか。小松さんの死を寂しいと感じる人もいるかもしれませんね。
年を取るのは寂しさを感じること?
私の夫も寂しいな~、とため息とともにつぶやいていました。私は特に寂しいとは感じませんでしたが、その姿を見ていると夫の祖母のことを思い出しました。夫の祖母が亡くなったのは今から21年前のことです。88歳でした。
夫の祖母は跡取り娘として婿を取って、自分が生まれた家にずっと住み続けた人でした。だから、幼なじみや同級生に囲まれた生活だったわけです。
ですが、年を重ねるとともに、それらの人たちが1人、2人と欠けていきました。
生きてはいても施設に入ったりして自由に会える人は残りわずかになったときに、祖母は心の底から寂しいと言っていたようです(もともと祖母は口癖のように寂しいと訴える人でした。誰からも相手にされなくて寂しい、1人でいるのが寂しい、と常に言っていたのですが、それは心の底からの寂しさとは少し違っているようでした)。
その寂しさは、夫が小松政夫さんの死を悼んで言った寂しさよりもさらに、迫ってくる寂しさであったろうと思います。
取り残されたから、寂しい?
誰かが死んで寂しいと感じる気持ちはどこから来るのでしょうか。寂しいと思うときは、自分は1人だけだと実感するときのような気がします。誰かが死んで寂しく思うときには、自分だけが生きている、置いていかれたという気持ちがあるのかもしれません。
死んでしまった人には、生きているときのように会って話をするわけにはいきません。心の中で語りかけることはできますが、相手が答えてくれることはありません。答えてくれたと思っても、それは自分の気持ちが相手に答えさせたのだと私は思います。
きっと自分の中では、自分が望んだ答えを亡くなった人は答えているのでしょう。もう、話をしたり、笑ったり、ケンカをしたりできないので、自分は1人取り残された、寂しいという気持ちになるのです。
実は取り残されていなかった
しかし、寂しい気持ちを感じた自分もいつまでも取り残されたままでいるわけではありません。自分もいつかは死にます。死んでしまった人と自分は一見立場が違うように思えますが、いつかは必ず死ぬという予定があるため、実は同じ立場に立っているのです。
普通に生きていると、何人かの人を見送らないわけにはいきません。すでに私の父も母も亡くなっていますが、私は寂しいという感情は持ちませんでした(すごく若いうちに大切な人が亡くなった場合などは例外です)。
私が思ったのは『すぐにそっちへ行くからね』ということでした。親が亡くなってから自分の番が来るまでに、場合によっては20~30年かかることもあります。
しかし、今までの人生で20年はあっという間でした。長い地球の歴史から見ても20年も30年もあっという間には違いありません。瞬時と言っても良いかもしれません。だから、すぐにそっちへ行くというのは間違いではないと思っています。
私が寂しいと思うのは誰かが亡くなったときではないです。側に家族や知り合いがいても、気持ちも話もまったく通じないのを実感したときです。気持ちや話が通じる・通じないのを実感するのは自分自身です。私は自分で勝手に通じないと決めてかかっているだけかもしれませんが、やはり寂しい気持ちに変わりはありません。
こう考えると、寂しい気持ちは自分次第といくことになります。自分次第ということは、自分で何とかできるかもしれない、と気が付きました。寂しい気持ちはどこから来るのか、考えてみるとなかなか興味深いです。
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