先日夫がこんなことを言いました。我が家には自家用車が3台ある(我が家が住んでいる地域は最寄りの駅が遠いため、皆当然のように自家用車を所有しています)のですが、それについての言葉です。
3台も車があるなんて、贅沢だよ。定年を迎えたら職場に行く回数も減るから、今載っている車(セダンタイプ)は処分して、職場には軽トラックで行こうかな。
それ、私も言ったよね?
実は夫が現在乗っている車を購入したいと言い出したとき、私は賛成できませんでした。我が家には贅沢だと思ったのです。購入するときの金額だけでなく、維持費ももったいないと思い、こんなことを言いました。
もう、子どもも成長して旅行も行かないよね?だったら軽自動車があれば十分でしょ。パパの通勤には軽トラックもあるし…
しかし、夫は私の言葉ですごく気分を害してしまったのです。「俺の唯一の楽しみをそんな風にいうなんて、がっかりだ。もう、仕事に行く甲斐もない」とまで言ったので、私は黙るしかありませんでしたが、夫の車を購入してからも、休日などにどこかに出かけるときは、私が普段買い物に使っている軽自動車を使うことが多かったのです。
夫は通勤に使っていると言い張っていますが、通勤は車を使うと10分ほどです。その短時間の通勤のために何百万もする車を購入したのかと思うと、腹が立ってたまりませんでした。それを何年も我慢して、やっと気にしなくなったところに先程の言葉です。
正論を言っても仕方がないのか
しかし、夫の気持ちもまるでわからないではありません。やはり、正論だけでは人生は成り立たないのでしょう。そして、夫を見て、どんな正論も人から言われたのでは効果がなく、自分が納得して初めて効果があるのだとわかりました。
このことで私はどんなに自分が正しいと思ったことでも、結局相手に届くことはないんだなと思いました。何かを思いこんでいる人に違う意見を言ったところで、それは違うと切り捨てられることがオチです。
それに私が発した言葉の意味を相手がそのまま受け取るという保証はどこにもありません。もしかすると、自分の意図しない意味を相手が受け取ることもあるかもしれません。夫の場合も私は、楽しみを妨害する相手でしかなかったのでしょう。
だから、自分の正しいと思うことを相手に伝えることにはリスクが多くて、意味はそんなにないのかもしれないと思うのです。ただ、記憶力の良い人なら、後になって『あのときの言葉はこういう意味だったのか』と腑に落ちることがあるのかもしれません。しかし、実際にあるかどうかわからない機会を狙って、一生懸命に意見を言うのも考えものです。自分が悪者になっても構わない、それでも言いたいと思うことは実はそれほどないのではないでしょうか。
正論は自分で探すもので、人に言われるものではない、と思うと、では目の前の家族と何を話すかと言う問題に突き当たる人もいるでしょう。実は話を聞けば良いのだと私は思います。娘たちにも正論を言いたいことがないではないです(早く自立しろとか)。人間とは話を聞くよりも、正論を言いたい生き物なのかもしれません。