この間ネットニュースを見ていたら、自分で作った料理を食べたくない人が意外に多くいることがわかりました。主婦だから食事は義務として作るけど、だからといってそれが食べたいかどうかは別の問題だということです。
自覚はなかったけど、人が作ったものは美味しかった
私もどちらかというと、自分で作ったものを喜んで食べる方ではありませんが、ことさらそれを意識していませんでした。淡々と作り、淡々と食べる、美味しいとかまずいとか考えませんでした。
一々考えていたら、毎日の流れが滞ってしまうと思っていたのです。しかし、あるとき作ってもらったジャガイモの煮っころがしを食べて、私は「美味しい!」という言葉を繰り返し口から出してしまいます。
私はもともと、他人に「美味しい」だとか「かわいい」などの感想を素直に言うことができません。言おうとするだけで構えてしまうのですが、そのときは素直に美味しいを連発してしまいました。
それは子どもの同級生の家でのことでした。そこの家はお祖父さん、お祖母さんと同居していて、玄関先で立ち話をしていた私に、今煮たばかりだから、とお祖母さんがジャガイモを持ってきてくれたのです。
人が作ったものが美味しい理由は?
美味しいを連発する私にお祖母さんはニコニコしながら言いました。
誰かに作ってもらうと、何でも美味しいよね。大人になると、人に作るばかりで、作ってもらえないから、余計に作ってもらうと嬉しいんだよ。
結婚してもしばらくは夫の祖母も私の母も元気で、たまには何か作ってもらうということがありましたが、そのうち私が作るのが当然になり、さらにもう少し経つと祖母も母も亡くなってしまいました。
私に足りないのはこれだったんだ!誰かに作ってもらった料理を私は食べたかったんだ!
誰かに料理を作ってもらうのは、愛されているからだと私たちは思っているのかもしれません。実際に好きでもない相手に料理を作り続けるのは、とてもむずかしいことだと思います。小さな子どもにとっては、料理を作ってもらうのは、愛情をもらって生きることと同じなのかもしれません。
たまには料理を交代してみよう
しかし、大抵の家で料理をする人というのは、ある程度固定されています。料理をする人は愛情を出すだけだして、自分は愛情を受け取ることを忘れてしまうことがあるのかもしれません(必ずしもそうでないことはもちろんです)。
今回、ネットニュースを見て、自分で作ったものは食べたくないのに、人から作ってもらったものは食べられるし、とても美味しいと思うとしたら、愛情、つまりは心の問題にかかわっているのかもしれないと感じました。
家族で料理を作りあえるなら、それは愛情が行き来するということになって、家族がみんなで幸せになれることではないでしょうか。
私にジャガイモの煮っころがしを食べさせてくれたお祖母さんはすでに2年前に亡くなりました。いよいよ、私には何かを作って食べさせてくれる人はいないくなったのです。