新聞で手洗いを止められなかった新聞記者の男性の話を読みました。
今朝はさらにその続きが掲載されていたので、また読みました。私の思ったとおり、男性は強迫性障害という精神の病に陥っていました。
強迫性障害の例はすべて私にあてはまる!
私が興味を惹かれたのは、手洗いの他に、強迫性障害のパターンとして何度戸締まりをしても不安でたまらないこと(確認)や車を運転しているときに、誰かを轢いてしまったかもしれないと考えてしまうこと(加害)があげられていたことです。
私は子どものときに手洗いが止められなくなりましたが、大人になってからは戸締まりやアイロンを切ったかどうかが不安になって、仕事に行けなくなったり、車を運転すると誰かを轢いてしまったのではないかと不安になって、落ち着かなくなることがよくありました。
私は強迫性障害を地で行っていたわけです。そして私の2人の娘たちも似たようなことを言っているので、不安でたまらなくなる性質は見事に娘たちに受け継がれたということになります。
しかし、多少不安に左右されることはあっても、私も娘たちもほぼ普通に生活をしています(次女は引きこもっているので、これが普通と言えるかどうかは少し疑問がありますが…)。
長女は漫画家として活動しながら、コールセンターでアルバイトをしていますし、私も主婦として必要なときは、車で買い物にも行きます。
正常と異常のようにハッキリと線が引けない
本来人間にはハッキリとここからここまでは正常で、この先は異常だと線を引くことはできないのかもしれません。体の病気も明らかに病気と分かる場合もありますが、ハッキリと病気とは言い切れないグレーゾーンの場合もたくさんあるでしょう。精神の問題はもっと、現れ方があいまいなのだと私は思います。
そうすると、実は誰にでも精神の病になる可能性があるし、そもそもそういう因子を持って普通に生活している人がたくさんいるのではないかと思います。
誰でもなる可能性があるから、大したことではないと言いたいわけではありません。例えばただのカゼでもこじらせれば、大病につながる可能性があります。そうなる前に適切な治療をしなくてはならないでしょう。
今は普通に生活していても、自分の精神はそれほど健全ではないかもしれない、明るい部分の影には必ず暗い部分があるのだと思っていたほうが良いと思うのです。
不安を受け入れて生きたほうが楽だと思う
夫の母はやはり精神の病を患っていましたが、絶対にそれを認めようとはしませんでした。「私はどこも悪くない」と言い続けて、亡くなったそうです。夫の母が自分の中の暗さや弱さを認めていたら、もっと長生きできたのではないかと思います。
いろいろあるのが人間です。手を洗わずにいられない新聞記者の気持ちが私にはよくわかります。やはり手には様々なものがついているのです。それは菌やウイルスだけではないと思います。洗っても洗ってもそれがすべて取れることはないでしょう。
結局不安が1つもない生活などこの世にはありえないのかもしれません。不安などないと言う人たちは、多分不安の存在を見ていないか、気づいていないだけです。自分の中の暗さや弱さを認めることは、不安の存在を認めることになります。それらを認めて、自分をいたわりながら生きていくしか、私たちに道はないと思うのです。
私は自分の不安を受け入れることで、不安に乗っ取られるのを防ぎたいと思っています。