私はどちらかと言うと、人に羨まれることとは無縁の生活を送っているようですが、過去に1度だけ面と向かって「あんたが羨ましい」と言われたことがあります。
初めて会った親戚の女性が
それは私がまだ40歳になる前で、幼い娘たちを連れて近所の親戚(亡くなった夫の母の実家)を訪れていたときのことです。暑い時期で、誰かの新盆だったのでお線香をあげに行ったのでした。
そこで親戚のそのまた親戚という女性に出会いました。私の母と同年代の人で、私と同い年の娘と夫と同い年の息子がいるのだと言っていました。娘には知的障害と重度の糖尿病があり、息子は1度結婚したものの、数年で離婚してしまったのだそうです。
親戚の女性は初めて会った私をかなりじっと見つめていましたが、その後にこう言い出したのです。
私の娘ももしかしたら、こんなふうに子どもを生んで育てている未来があったのかもしれない、息子も結婚して子どもを授かり、幸せに暮らす未来があったかもしれないよ。
どちらも今の私の家にはない幸せだ。そう考えるとつくづくあんたが羨ましい、あんたと〇〇ちゃん(夫の名前)が羨ましい。
初対面でいきなりこんなことを言われて、私はただ黙ってそれを聞いているしかありませんでした。その後、何度か娘さんの方には道端で会い、挨拶をしましたが、娘さんは肉体は私と同年ですが、精神は子どものままのように見えました。私のことをおばさんと呼んで、元気に挨拶をしていました。
糖尿病の治療がうまくいかなかった?
娘は重度の糖尿病がありましたが、どんなに言い聞かせても食事制限をすることができませんでした。家であまり厳しくすると、勝手にスーパーに出かけて、買い食いをしてしまうのでした。血糖値のコントロールができずに、道端で倒れて、救急搬送されることもありました。
中年になるとともに、娘の病状はさらに悪化して、50歳になる頃に亡くなってしまいました。自治会の集まりがあったとき、母親である親戚の女性は、娘の死について悲しいとは言いませんでした。死んでしまったものは仕方がない、きっと娘は私のことを待っていてくれるから、大丈夫だと言っていました。
その顔には微笑みすら浮かんでいたので、相当前から娘は自分より先に亡くなるのだと覚悟をしていたのだと思います。覚悟を決めて毎日生きていた人が、私の前で素直な気持ちを吐露したのだと知ったとき、私はかなりの驚きを感じました。
羨んでもらえたことを大切にしたい
親戚の女性は私と夫のことを離婚もせず、子どもを設けて幸せそうに暮らしているのが羨ましいと言っていました。しかし、今私たち夫婦が無条件に幸せなのかと言えば、それは違います。夫の弟の病気やこれからの生活のこと、娘たちの行く末のことなどで考えるとキリがなくなります。
どこかでこれは自分たちだけの力で、早急に解決しようとしても無理だと諦めているので、考えていないだけです。今更年をとった親戚たちに相談して心配をかけたいとも思わないので、夫婦の胸の中にだけ留めているわけです。
ですが、羨ましいと言ってもらえたことは、自分の人生の中で大切にした方が良いことなのでしょう。これからも私は親戚の女性が羨ましいと言ってくれた、夫と子どもがいる生活を大切に生きて行こうと思っています。
親戚の女性の家と我が家とは徒歩で5分ほどしか離れていませんが、最近はめったに見かけなくなりました。私が年を重ねた分、女性も年をとったのでしょう。今もお元気でしょうか。私のことは忘れてしまったかもしれませんね。