山梨県のキャンプ場で小学1年生の女児が行方不明になったから、今日でまる2年になるそうです。女児の母親や地元の警察はいまだに協力して、捜査にあたっているということです。
行方不明になった当時、女児の母親が犯人ではないかとなどの無責任な発言がありました。また、母親が目を話したのが悪いという意見も根強くあり、私は聞いているだけで気持ちが苦しくなりました。
みんなそんなに子どもを見張っているの?
いくら母親(父親)でも、自分の子どもから一瞬も目を離さない人が果たしているのでしょうか?女児は1人でおやつを食べた後、遊んでいる他の子どもたちを追いかけていく途中で行方不明になりました。
その日はキャンプ場に大勢の友だちも一緒に行っていました。それは子どもにとって非日常です。女児自身がお母さんより友だちと一緒にいたいと思ってしまっても不思議はありません。
それが友だちのところまで一人で行くという選択になっただろうし、そんな女児を見て、母親もつい行かせてしまったのでしょう。私はそのことを責める気にはなれません。
世の中には大勢の子どもがおり、誰もが行方不明になるわけではありません。それは周りの大人の力もあるかもしれませんが、単に運が良かっただけだとも私には思えます。私たちに人の家のことをとやかく言う(それも何かあった後になって)資格はないのです。
被害者も責められるのが今の日本なのか
行方不明になった当時も散々報道されていましたが、キャンプ場の周りを何度捜索しても、遺留品すら見つからなかったと言います。これは誰かが女児を連れ去った証拠だと思います。つまり犯人がいるということです。
親に多少の不注意はあったとしても、責められるべきは犯人です。私は女児の母親を含め、周りの大人達がすぐに捜索を開始したと聞いて、適切な判断をしていると思いました。少なくとも、無責任に大丈夫だとは思わず、みなができることを懸命にやったわけです。
それなのに、世間は犯人ではなく、親の方を標的にしました。なぜ被害者が責められなくてはならないのか、当時私は日本という国が恐ろしく感じられました。私には誰が犯人なのかはわかりませんが、それは他の人だって同じことです。それなのに、女児の母親を犯人と決めつける、または母親の落ち度で女児が行方不明になったとなぜ言えるのかが不思議で仕方がありません。
私が言いたいことは
もし、神様がいらっしゃるなら、女児を家族のもとに返して欲しいです。もう十分すぎるほど女児の家族は責を負ったことと思います。2年の月日は小さな子どもにとって、決して短いものではありませんが、今ならまだ間に合うと思えます。
女児の一家に、家族としてもう1度やり直すチャンスがあるように祈っています。まあ、私が祈っても何の力にもなりませんが…
それでも「無事に帰ってきますように」、やはりこの一言を言いたくなってしまいます。