もう13年前になりますが、次女の同級生のお母さんが、小学校の給食配膳室で働き始めました。まだ次女は小学生だったため、そのお母さんは職場に行くと高い確率で自分の子どもと顔を合わせることになりました。
子どもは男の子でしたが、親子揃って恥ずかしがり屋。顔を合わせるたびに2人で真っ赤になっていて、先生にまでからかわれる始末でした。私は当時PTAの役員をしていて、そんな場面をしょっちゅう目撃していたのです。
だけど突然、お母さんは亡くなった
だけど次女たちが中学生になるころ、お母さんは突然亡くなりました。きっと私が知らなかっただけで、突然ではなかったのでしょう。実は闘病しながら、仕事もしていたようです。私はそのお母さんとほとんどしゃべったこともなかったため、葬儀には参列しませんでしたが、参列した知人は「やっぱりガンだったらしいよ」、「旦那さんは立っているのもやっとという感じだったよ」と言っていました。
しゃべったこともなかった人だったのに、自分の息子と顔を真赤にして、笑っていた姿をヤケに思い出しました。人間って本当に死んじゃうんだな、そう思ったらとても寂しい気持ちになったのを覚えています。
そして、ぼんやりとお母さんにそっくりだったあの息子はどうしているだろう、と思いました。
誰でも同じ経験をしている?
いろいろなブログを読んでいると、急に周りにいた同年代の方が病気で亡くなったという記事によく出会います。だから、もしかするとこんなことは特別でも何でもないのかもしれません。40代、50代は旅立ちが始まる時期なのでしょう。
自分だって多少の差はあっても必ず亡くなります。これは間違いのない事実ですが、普段は忘れて生きています。だから、周りの誰かが亡くなると急にその事実を思い出してしまうのかもしれません。そうして勝手に寂しい気持ち、心細い気持ちになってしまうのではないでしょうか。
親が2人共亡くなってしまったとき、次は自分が死ぬんだなと思い、とても切羽詰まった気持ちになりましたが、それは自分が断崖絶壁に立たされた危機感のようなものだったと思います。さっきのお母さんが亡くなったときに感じた寂しさはそれとは少し違うような気がします。
寂しい気持ちは人生が終わりに近づいた証拠かも
無理やりその気持ちを何かに例えるなら、秋の夕方に外にいて、家路を急ぐときのような気持ちではないでしょうか。私の人生は、季節なら秋、1日でいうなら夕方になったということかもしれません。人生の終わりが近くなったから、なんとなく寂しい気持ちがするということかもしれないと思います。
よく秋にセンチメンタルになるのと一緒で、本格的な老いの季節に入る前に、私はセンチメンタルな気分になったような気がします。きっと本格的な冬・老いの季節に入ったら、いろいろ大変でセンチメンタルどころの騒ぎではないでしょう。
今の私はもう、あのときのお母さんよりもずっと年上になってしまいました。それを考えると、また寂しい気持ちになるのです。