今日でお彼岸も終わりです。ギリギリで実家の墓参りに行ってきました。お盆に行ったばかりだし、10月は父の11月は母の命日があるから、無理して行かなくても…と思っていましたが、夫が行くぞ行くぞとうるさく言うので、嫌々行きました。
嫌でも行けば満足感が得られる
行ったらとても暑くて疲れました。暑さ寒さも彼岸までというのは、今の世の中には合わなくなってしまったのでしょうか。帰ってきてもまだ、身体に熱気が残っています。しかし、やはり終わってみると、また今年も無事にお参りができたという満足感があります。
頭では無理に墓参りに行くことはないと思っていても(行ったところで誰に会うわけでもありませんし、私は墓に語りかけるようなことはできません)、今の中高年は、お盆やお彼岸に墓参りに行くことがもう身体に刷り込まれているのだと思います。
お墓がある以上、時期が来たら墓参りに行かないといけないという気持ちになるに違いありません。墓じまいをすれば、お参りする先がなくなるわけですから、こんな気持ちから自由になれるのでしょうか。それとも、かえって頼りない不安な気持ちになるのでしょうか。
今日もゆっくりお参りをするというわけではなく、暑いので急いで花を活け、急いで線香をあげて、急いでお参りをして、逃げるように帰ってきました。それでも、なぜ夫は墓参りに行こうとうるさく言うのでしょうか。夫もお参りしないと、気にかかって気持ち悪いと思っていることがうかがえますが、それだけではないように思います。
お彼岸の終わりの日が夫の誕生日
実は今日が夫の誕生日です。お彼岸の最後の日に生まれた夫は、生まれ育った環境も手伝って、お盆やお彼岸を大切にするようになりました。それは別に生まれた日だけのせいではないでしょうが、何か関係あるのかもしれない、と考えてしまいます。
秋のお彼岸が終わると、我が家ではしばらく墓参りをしなくなります。月命日には必ずお参りする方、年末や年始にお参りをする方に比べると、我が家での負担はそれほどではないように思います。しかし、それでもこれからもずっと墓参りをしなくてはならないと考えると、正直う~ん、という気持ちです。しかも、実家の分も…です。
もし、夫がいなかったら、私はもう墓参りに挫折していただろうと思います。墓参りを続ける上では、お彼岸の終わりに生まれた夫の存在は、良い意味での圧力になっているのです。