人の死を悼むことはこれからどうなっていくのか?心の中だけでさっぱりと見送りたいけど

生活

献花をしたあとの花はどうなるのだろう、などと考えていたら、安倍元首相が亡くなったときはデジタル献花を実施したと知りました。デジタル献花を実施した人は、安倍さんの死を悼む人が誰でも皆献花をするために出かけられないだろう、と考えたようです。

どんなところからでも、哀悼の意を表し、感謝の気持ちを言葉と花で伝えられる場を作りたいという思いがデジタル献花が生まれたのでしょう。一時はつながりにくくなるほど、デジタル献花をした方は多かったようです。実際の花はなくても、多くの暖かな言葉を伝えられる点で、デジタル献花はとても優れていると思います。

死を悼んだのだという証拠が欲しい?

しかし、誰かが亡くなりその死を悼むためには、やはり何かが必要なのでしょうか。その人の心はその人だけにしかわからず、傍の人はただ推測することしかできません。自分の心の中では亡くなった人をこれほど悼んでいるんだよ、と知らせたい人がいても不思議ではありません。

私は夫の祖母が亡くなり、自宅で葬儀を行いました(当時私が住んでいる地区ではまだ自宅で葬儀をする人が多数派だったのです)。霊柩車で火葬場に行くとき、近所の方がみな出てきて手を合わせて見送ってくれました。

その方たちはただ近所に住むというだけで、特に祖母と親しかったわけではありませんでした。だから、葬儀にも出席しないし、香典を出すわけではありません。しかし、霊柩車の中の私には、手を合わせる人たちの姿がとてもあたたかいものに感じられ、素直にありがたいなと思えたのです。

その人たちは祖母との間柄を考えてあえて葬儀に出なかったのではないかと思います。近所に住んでいたから、亡くなって寂しいと思ってはいても、葬儀に出て香典を出せば、香典返しを出させることになります。私たちの手を煩わせるのを心配して、あえて葬儀に出ず、手を合わせるだけに留めた行動が、祖母が亡くなって忙しくしている我が家への思いやりのように感じられたのです。

ただ、手を合わせる、それだけのことでは証拠が残るわけでもなく、いつかはなかったことと同じになってしまうかもしれません。私だって、祖母の葬儀の際に手を合わせてくれた人たちすべてにお礼を言えたわけではありません。きっと多くの人たちはそれが心配なのでしょう。自分の思いがなかったことにされるのは、誰だって嫌だと思います。

だからこそのデジタル献花ですが、これから人の死を悼むことはどうなっていくのでしょうか。

ものやことに頼らずに死を悼むことができれば良い

私たちは最近、死を忘れて生きているような気がします。死に直面する機会は明らかに減っていると思うのです。私が最初に直面した死は、夫の祖母の死でした(それ以前の祖父の死は、まだ自分のことではありませんでした)。私はそのとき35歳でした。誰も皆死に免疫がないまま、大人になるのでしょう。

だから今、誰かが亡くなったとき、どうして良いかわからなくなってしまうのではないでしょうか。いつかはものやことに頼らず、自分の力でさようならが言えるようになっていると良いなと思っています。目標を祖母の死に道端で手を合わせてくれた近所の人たちです。

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