いろいろ中止になっていますが…

生活

早いもので5月も終わろうとしています。緊急事態宣言は解除されましたが、まだまだ生活が前のように戻ったとは言えないと思います。

コロナで中止になったもの

我が家は農協の役員をしていて、広報紙を仕分けして班長さんたちに配ってもらったりしています。とうとう今月は広報紙が休刊になりました。

考えてみると農協の広報紙は組合員(生協と同じで農協も企業とお客様ではなくて、組合員たちの活動になります)の活動報告のような意味合いがあります。コロナのせいで活動がほとんどなくなるなら、広報紙に載せる記事もなくなります。広報紙を発行する意味もなくなってしまうわけです。

近所の若い奥さんによれば、学校がずっと休校のため、PTA活動も止まったままだということです。私が住んでいる地域では、自治体活動もすべて中止になっています。今年度から我が家は自治体の班長になりましたが、今まで総会を始め、1つも会合がありません。おそらくお祭りや体育祭も中止になるでしょう。

大変なことになっているのは間違いありませんが、私はこんなふうにも思っています。

ゆみこねこ
ゆみこねこ

広報紙がなくても、総会が中止になっても、誰も困っていない!

準備を整えていたものが、中止になると残念ですが、私の場合は広報紙は読むだけだし、会合には参加するだけの予定だったので、残念と言う気持ちはあまりありません…

ずっとなくても支障がないもの

なければないでなんとかなるなら、最初からやらなければ良いのではないかと考えてしまいます。特に広報紙という存在についてはPTAの役員をしていた頃から、そう考えていました。でも、なくても良いのではないかと言うと、必ずこんな答えが還ってきます。

広報紙が届けば、私は必ず読んでいるわよ。結構楽しみにしているのに…。

そう、届けば必ず読む、開かれれば必ず会合に出席する、そんな人はとても多いですが、広報紙が届かなければ、会合が開かれなければどうするのでしょうか。どうしても必要なことなら、自分が先頭に立って行うのかもしれませんが、そこまでする人はあまりいないのではないでしょうか。コロナ騒ぎの中では誰もが広報紙や会合については、あってもなくてもどちらでも良いものとして考えるでしょう。

しかし、平常時にはこのあってもなくても良いものに、苦労する人がたくさんいます。PTAや自治会の役員などをしたことがある人には、覚えがあるでしょう。

この機会にムダなことはなくなって欲しいと強く思っていますが、それには危険もつきまとうようです。

ムダをなくす危険とは

自分の興味がないこと、面倒だと思っていることはすべてなくなっても構わないという考えに陥ってしまうことが危険なのではないかと、私は思います。

最初は気が進まなくても、実際に自分が広報紙を読んだり、会合に参加することで自分の知らない世界に触れることは確かにあります。それで多くの人たちの世界が広がることが、お互いに違う存在を許せるようになることに繋がるのではないかと思います。ムダなことをなくすことには、その機会もなくす恐れがあるように感じます。

世の中はもっと狭くて窮屈なものになるかもしれませんね。

今はリセットの時期?

私は、このコロナ騒ぎでいろいろなことが中止や延期になることが、ムダの自然淘汰ではなくリセットの機会だと考えることができたら良いと思います。

1度すべてなくしてみて、その後で本当に必要なことを自分たちで選んで、また始められたら、この世の中が少し変わるかもしれません。例えば広報紙でも本当に続けたいと願う人たちが作るなら、とてもおもしろいものが作れるのではないでしょうか。

少人数でも本当にこれを続けたい、やりたいと願う人たちがいるなら、いろいろなこと(たとえ誰かにとってはムダなことでも)が輝きを持つのではないかと思います。今はリセットの時期で、これからは本当に必要なことができるのだと考えることで、これからの世の中に希望が持てる、私はこう思います。

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