岡江久美子さんが突然亡くなったために、私と同年代の人でも、自分の死について考える人が増えているようです。エンディングノートを用意した人もいるのではないでしょうか。
葬儀の希望は無視された
私の母も60代の頃からエンディングノートを用意していました。でも、母が思ったほどには役に立たなかったのかもしれません。まず、葬儀は家族葬でやって欲しい、親戚は一切呼ばなくてよいと書いてありました。喪主になった私の弟はこれを守りませんでした。
母としては親戚がみな遠いところに住んでいるので(実家は埼玉県ですが、親戚はみな大阪と新潟に住んでいます)、葬儀に呼んでも迷惑がかかると考えて書いたことだと思います。でも、弟としては連絡しないで、後から文句をいわれるのは自分だと考えたのです。
私にとっては叔父や叔母ですが、母にとっては弟や妹です。弟や妹は最後のお別れがしたいと考えるかもしれません。葬儀に参列するかしないかを決めるのは、本人ですが、こちらが連絡もしないのでは、一方的に叔父や叔母を拒絶することになってしまいます。
母の希望はこうして無視されましたが、葬儀は生きている人のためにもすることを考えると仕方がなかったように思います。
必要だったのは住所録
母は誰も葬儀に呼ぶつもりがなかったので、住所録については触れていませんでした。私と弟は実家で住所録を探して、親戚に連絡をしましたが、そこには母の友人たちの住所や電話番号は書いてありませんでした。
母は元気なときには携帯電話を持っていなかったので、携帯電話のアドレスで連絡を取ることもできず、年賀状はないかと探し回って大変な思いをしました。
エンディングノートではなく、正確でしっかりした内容の住所録を残しておくと、家族の役に立つかもしれません。
感謝の気持ちは普段から示そう
エンディングノートには家族への感謝の言葉を書く人も多いようです。母も書いていましたが、読まれるのを前提として書かれた感謝の言葉というのは、読んでいてちょっと苦しいものがありました。何だか無理やり書かされたような感じがしたものです。
私(当時50歳)と弟(当時47歳)に対して仲良くしなさいと書いてあったのも、『お母さん、他に書くことなかったの?』と思ってしまいました。
感謝の気持ちがもしあるなら、エンディングノートに頼らずに、普段から示すようにした方がよいと感じました。
命に関する考えを示す難しさ
無理な延命措置はしないで欲しいなど、命に関する自分の考えをエンディングノートに書いておくのも大切だといわれています。もちろん、母もそのことについてハッキリと書いていました。弟はそれに従い、79歳だった母の積極的な治療を断りました。
母は病気がわかったときには、すでに末期で、治療をしたとしても苦しい時間が増えるだけだと医師にいわれていたことも影響していましたが、やはり母の言葉があったから、弟は医師にハッキリと治療を断ったのだと思います。
でも、私は元気なときに考えたことが、いつまで保てるのかという疑問を持っています。もし、自分の意思を伝えることができない状況でも、私は生きたいと思うかもしれません。それが伝えたくても伝えられないなら、とても怖いです。私は、命に関することを書く勇気がありません。
母の治療を断ったことについても、私は今でもあれでよかったのかと思うことがあります。母は見殺しにされたと思っているのではないかと考えてしまいます。
私が作るとしたら、伝言ノートになるのか?
残された家族が困らないように、自分の資産を相続することについてはキチンと書き残した方がよいでしょう(どんな貯金があるか、どんな保険に入っているか、土地はどこにあるのかなど)。資産が忘れられていた、ということを防げるかもしれません。
遺言がなくても、法律に則って相続の金額が決まります。現金化できるものはして、法律の通りに分ければよいのです。遠慮なく現金化してくれ、思い出などはさっぱり捨て去って構わない、と言い残してあげれば、現金化しやすいかもしれませんね。
だから私は、自分の考えを示すため、感謝の気持ちを残すために、エンディングノートを残さないような気がします(資産の目録は作るかもしれません)。大体エンディングノートを残して、自分の考えを示しても、それを実行してもらえるのか、確かめる術はありません。
私がエンディングノートを作るとしたら、資産の目録か伝言ノートになってしまうのかもしれません。