写真ではよくわからないかもしれませんが、私が愛用している茶碗たちです。手と一緒に写したのは、サイズ感をわかっていただくためです。一番手に近いのは、ご飯茶碗として愛用しています。小ぶりで手にすっぽり収まるので、とても使い勝手が良く、もう使いだして6年目になります。
叔父が作った茶碗
これは買ったのではなくて、いただいたのです。夫の叔父は陶芸が趣味で、自分で窯まで作っていました。最初は大きな作品ばかりでした。とにかく皿でも碗でも、何人前入るのかというくらい大きかったです。
小さなぐい呑を作ると、中に入れたお酒が漏れてくることもありました。しかし、叔父が作るものは色や艶が素敵だなと思っていたので、早く小さな作品も作るようになって欲しいと思っていました。
しかし、2015年に叔父はあっけなく病気で亡くなってしまいます。本当はあっけないことはなく、大変だったはずですが、誰にも知らせるなと言ったために、叔父の妻(つまり叔母です)は本当に限られた人にしか病気のことを伝えませんでした。
叔父の死後、作品が販売された
叔父は葬儀もしなくて良いと言っていたようで、本当にひっそりと行われました。私たちが亡くなったと聞いたのは、葬儀が終わって1カ月くらいは経った頃だったのです。
そしてその頃に叔父が作った陶芸作品を近所のギャラリーを借りて販売するから、いらっしゃいという誘いが来ました。行ってみると、ギャラリーには叔父を偲ぶ人がたくさん集まっていました。
叔母はその人たちの応対で忙しそうでしたが、私たち夫婦を見つけると、「わざわざ来てくれてありがとう」とお礼を言いに来てくれました。そして、叔父の作品はすべて売って、売上金は東日本大震災で被災した人たちのために寄付するんだと教えてくれました。
すでに私たちは大きな作品をいただいていたので、この3つの小さな茶碗を選んだのです。叔母はせっかく来たんだし、形見になるものだから、もっと大きくて立派なものを、と言ったのですが、私が気に入ったのがこれだったのです。
茶碗を使う度に思い出す
これじゃあ、お金は要らないと叔母に言われたため、ありがたくいただいて帰ってきたのです。その後、叔母は叔父と住んでいた自宅も売り払い、高齢者向けの住宅に移り住みました。叔父と叔母はお墓も買いませんでした。樹木葬を選んだために、時間が経つと遺骨は土に返ります。こうして、叔母はすべての始末を付けたのです。
寂しいような潔くて羨ましいような、いろいろな気持ちが叔父と叔母に芽生えました。そして茶碗を使うたびにその気持を毎日少しずつ思い出しています。
叔母は残念がっていましたが、小さなものだからこそ、毎日使うことができるので、私は形見分けとしてはこれで良かったと思っています。私の経験では、形見分けでいただいたものを愛用できるのは本当に稀なことです。だから、この茶碗たちは私にとっては貴重な存在です。
奥に写っている小さな鉢は、なぜか次女が気に入っていて、頻繁に使っています。特に次女には叔父や叔母との思い出はないはずですが、自分にゆかりのあるものには引き付ける力があるのでしょうか。
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