本日、9月4日は私の誕生日です。58歳になりました。幼かった自分のことや若かった父や母のことを思い出しているうちに、私が子ども時代を過ごした昭和の日々が、今とはかなり違っていたことにも思い至りました。
昭和は差別的だった
私が小学校生だった1970年代は今よりもずっと差別的な世界でした。今考えるとこれはマズイのではないか、という言葉を誰もが平然と口にしていました。子どもがふざけて口にするなら、多少は仕方がなかったのかもしれませんが、教師までが少し思い通りにならない子どもに向かって、かなり差別的な言葉を投げつけていたのでした。
もちろんそれで傷ついた子どもも多かったことでしょう。私も一度、こんなことを先生に言われた~、と母に泣きついたことがありましたが、母は一言「お前が先生の言うことを聞かないからいけないんだ」と言っただけでした。
ところが小学校を卒業する頃から、世の中は徐々に変わっていったようです。いつの間にか「この言葉は使うと人を傷付けます。〇〇と言わないようにしましょう」と、口にするのを禁止される言葉が増えていきました。
昨日まで、まったく問題なく口にしていた言葉が今日はもう使ってはいけない、これはとても異様なことに思われましたが、みんなは自分が悪者(差別をする側)になるのは避けたい気持ちが大きかったのでしょう。さまざまな言葉やジェスチャーが私たちの周りから消えていきました。
最初からそれらの差別的な言葉やジェスチャーがない場所で育った人たちと違い、私たちの年代はただ、使うなと言われたから使わないだけ、結局何も変わっていなかったのかもしれません。私も言葉はなくなっても、現実は残っているのに、それは良いのかな~、などと思っていました。
つまり、言葉で人の心を変えるとは思わず、単に言い換えをしているくらいにしか感じていなかったのです。
昭和世代は今の社会についていけていないのでは?
現在、世の中は更に変わっていっているようです。以前は当然だと思っていたことが、ハラスメント行為だと認定されています。例えば、望まないスキンシップ、飲み会、下ネタだのあげればキリがありません。差別がなくなり、どのような嗜好を持っていても堂々と生きられる社会になるのは大歓迎です。
大歓迎ですが、私たちの世代の人たちが真に平等で多様化を認められるのか、と言えば怪しい人も多いのではないでしょうか。私たちの世代の人たちが差別はいけない、人間は平等であるべきだなどと口にしても、それは付け焼き刃である可能性が大きいです。
決して私たちの年代が差別を認めて、平等な社会を諦めているというのではなく、小さな子どもの頃に作られた人間の根っこが変わらずにいるために、今の社会に追いついていけないのではないかと私は思っています。
私も差別的だ
現に私自身も、社会人だった頃に差別的な発言で傷付けられたことがありますが、自分を振り返ると差別的だったことを認めざるをえないのです。
男性が働いて家庭を支えるのは当たり前(かつては同年齢なら男性の方が給与が高かったという現実がありましたが…)だとか、酒が飲めない男性は男らしくない(今は家計費がかさむことが嫌というほどわかりました。飲めない男性、素晴らしいです)などと考えていたからです。
昨日、俳優の香川照之さんについて、思うところを書きましたが、彼もまた置いてきぼりになってしまったのかな、などと思っています。
私の母も、今考えると怖いようなことをよく口にしていました。時代のせいであって、悪気はなかったのだと思いたいですが…どうでしょう。