2015年に私の母が急に入院することになり、やっと入院できたと思ったら、母はガンで手の施しようがないといわれました。人間がいつか亡くなることはわかっていたけれど、私が実質上誰かを看取るのは初めてのことだったのでとても不安になりました。
母の死を前にしたときの不安と恐れ
母が入院した病院は本来は、長くいられるところではありませんでしたが、母の病状を見た医師が長いことはないだろうから、最期までウチにいていいですよ、といってくれました。
ガンだと診断されてから、急に変わってしまった母を見ていると、これからどんな道のりをたどるのか知りたいと思いました。
人がどんな道のりをたどって亡くなるのかがわかれば、不安が解消すると私は思い込んでいました。だから、どうしてもそれが知りたくてたまりませんでした。医療系のサイトも読みましたが、もっと生の声が聞きたかったのです。
不安な心を明るくしてくれたブログ
そこで検索を繰り返し、1つのブログにたどり着きました。当時はお気に入りに登録していましたが、名前などは全く覚えていません。でも若いお母さんのブログで、ガンの治療に励む様子とともに、子どものことを気にかける姿も垣間見ることができました。彼女は治療にもとても前向きで、読んでいると患者ということを忘れてしまいそうでした。
最後に読んだ内容は、とうとう自分ではトイレに行くことが難しくなって、紙おむつを着けるようになったというものでした。でも、がんばります、と綴られていました。この後も前向きに治療に取り組むのだろうなと思っていたら、何日か更新が止まりました。
普通に生活をしている人でも、ブログの更新ができないことはよくありますから、まったく気にしていませんでしたが、1週間くらいで、ご家族によって、彼女は天に召されたこと、だからブログの更新はできなくなってしまったこと、今までの愛読を感謝することが告げられました。その言葉の数々を目にしたときには、ただ悲しいなとしか感じませんでしたが、今新たに思い出してみると、また違った思いを感じます。
彼女はみんなの宝物になる
彼女は自分が亡くなった後、ブログを読んでくれた人が待ちぼうけをしないように、ちゃんと亡くなったことを伝えて、区切りをつけてくれるように家族にお願いしていたんだという事実に気が付きました。普通はパスワードなどがわからなければ、そのブログに文章を書けません。ブログには、プライベートな側面もありますから、私たちは大抵、家族にもパスワードは秘密にしています。
更新が止まったまま、遺跡のように残っているブログはたくさんあります。また、ブログを続けられない人が、その理由までを読者に明らかにすることはありません。会社を辞めるときと同じで、一身上の都合でよいからです。でも、彼女はそれをしなかった。今では私はそこに覚悟のようなものを感じています。誰かの覚悟を目の前にしたとき、黙ってうなだれるしかないことを私は初めて知りました。ブログを通してですが、彼女は私たち読者に、とても真摯に向き合ってくれたのだということがわかりました。
誰もが彼女のようになれるとは思いません。死を目の前にしたときに、そんなことはどこかに吹き飛んでしまうでしょう。でも、彼女の姿勢は、いつまでも胸の中にとっておきたいと思っています。結局、人間が亡くなるときにどうなるのかは、よくわからないままでしたが、こんなふうに亡くなる人がいることは、私の希望になりました。
実際に母が亡くなった後は…
実際に母が亡くなると、母が亡くなるかもしれないという恐れが消えました。
いつ、どんなふうに亡くなるんだろうという不安は消えました。人が亡くなることよりも大変なことはありません。私はいつ母が亡くなるかをもう心配しないで済みます。そう考えると、心が軽くなるのを感じました。
また、どんな病気になってもできることがあります。実際に亡くなる直前まで、彼女はブログで人々に希望を与えました。きっと亡くなった後も、それは同じです。重い病気になったら、動けなくなったら、亡くなったらそれで終わりではないことがわかりました。母を見て不安になっていた私でしたが、更に心は軽くなりました。
1つのブログにこんな力があります。だから私はブログが大好きです。
母の死に関することは、すべてリセットしてしまい、ブログのタイトルも何もわからなくなってしまったことが、今になって少し悔やまれます。でも、自分も誰かの役に立てるかもしれないと考える事自体が、生きる希望になることもあります。だから私はブログを続けていきたいのです。