今娘たちが、漫画家になりたいとか、引きこもっているとか、いろいろありますが、何となく私がやり過ごしているのは、私自身がとても問題のある子どもだったことが関係しているように思います。
入学してすぐに、はみ出した
小学校に入学した時点(昭和45年のことです)、すでに私ははみ出していました。担任の先生は関先生という中年の男性でしたが、私は先生のいうことの意味をまったく汲み取ることができませんでした。授業で指名されても、何も答えず、教科書も読まない私は先生に困った子どものレッテルを貼られ、それは母にも「もう普通学級で面倒を見ることはできない」という言葉で伝えられました。
母は先生の言葉を私に伝え、とても怒りました。先生の言葉にも怒っていましたが、学校になじめない私にも怒りました。この頃に、母が私に算数を教えてくれましたが、わからないと竹のものさしで叩かれるので、決定的に私は算数が嫌いになりました。私は先生の言葉に対しては、それなら普通学級でなくてもよい、と思っていました。子ども心に望むところだ、と思っていたわけです。
下痢と嘔吐で学校に行けなくなる
そんな経験をしているうちに、私はしょっちゅうお腹が痛くなるようになったのです。最初は母からは仮病扱いをされていましたが、本当にひどい下痢と嘔吐が始まり、学校に行くどころかトイレからも出られなくなりました。
当時私たち家族が住んでいた家には、トイレは1つしかありませんでした(昭和40年代はそれが普通でした)。私がずっとトイレを占領していた間、母や弟はどうしていたのか、今でも不思議です。
心配した母にいろいろな病院に連れて行かれ、検査もたくさん受けましたが、結局は自家中毒といわれました。これはカゼや疲労が原因になることもありますが、ストレスによっても起こる症状で子どもに特有のものだそうです。私は脱水状態になっており、入院して点滴をされました。入院は2週間に及びました。自家中毒で2週間も入院するのは、よほど気難しいんだね、とお医者さんに笑われたことを今でも覚えています。
2度の入院の後、学校になじんだ私
私は小学校1年生のときに2回入院しました。自分で学校に行くのが嫌だといったことはありませんでした。我慢できないほどではないと思っていたのですが、体の方が正直だったようです。2度の入院の後に、私は自分でも意外なほどすんなりと学校生活になじんでいきました。私が教科書を音読したときに、「字が読めたんだね」と驚いた生徒がたくさんいたようです。
自分で腹をくくるしか、窮地を切り抜ける方法はなかったわけです。私は学校というところでの過ごし方を身につけて、学校生活を送ることを選びましたが、そうではない方法を選ぶ人もいるでしょう。それはその人によって違うでしょうが、自分の人生を決める方法は自分で選ぶしかないのは誰にでも共通していると思います。
どんなことでも、最終的には自分で何とかするしかない
自分の経験があったから、娘たちにいろいろあっても、私は自分で決めるまでは仕方がない、と思って見ていられるのだと思います。
例えば親である私がいろいろとアドバイスをした方がよいこともあるのかもしれませんが、そのアドバイスが娘たちの心に届くかどうかは、娘たちがそのアドバイスを採用するかどうかにかかっているのではないでしょうか。だから、結局はほかからの働きかけよりも、自分というものにかかってくるのだと思います。
ほかからの働きかけは、ともすれば私の母の竹のものさしのような事になってしまうのでしょう(あれも私を思ってのことだったと、思いたいです…)。
トルストイもいっていたようです(うろ覚えです)。自分を引き上げるのは、自分しかいないと。