名字なんか最初からなければ良いと思った話

生活

選択的夫婦別姓制度が望まれるようになってから、もう何十年も経っています。私が子ども時代からそれを望んでいるカップルは存在していました(今から50年近く前のことです)。

実際に名字が変わった感想

私は私の母がそうしたように、結婚により夫婦どちらか(圧倒的に女性が多いのはご存知の通りです)が違う名字になるのが当然だと思って生きてきました。子どもの頃は好きな人と同じ名字になれるんだと、それを前向きに捉えていたのです。

そんな私でしたが、実際に結婚して名字が変わると、思いの外違和感がありました。生まれてから20数年間を一緒に生きてきた名字がある日を境にまったく違うものになるのは、自分というものが無くなるのと同じことに私には感じられたのです。

私は自分の実家がことさら好きだったわけではなく、名字にも愛着はないと思っていました。その私ですら、名字が変わったときには、今までの自分の人生は何だったのだろうと、すべてが虚しくなってしまったのです。

また、名字が変わるとしなければならない手続きがいろいろと出てくることも嫌でした。預金通帳の名義変更、会社の身分証明書の作り直し、免許を持っている人も手続きが必要になるでしょう。それでなくても新しい生活に慣れるのに大変な時期に余計な仕事が増えるのです。そしてそれは夫には一切ないことを考えると、私は自分の苛立ちを抑えることができませんでした。

新しい名字を受け入れたと思ったけど

いっそのことペーパー離婚をして旧姓に戻した方が、精神的に良いのではないかとまで考えましたが、これから子どもを生むことを考えると、そこまですることはないかと思いとどまったのです(子どもの立場がどうなるかという不安もありました)。

そして年月とともに名字が変わったことを、私は受け入れたと思っていました。夫の名字で呼ばれることにも慣れたと自分では思っていました。

しかし、結局は大人になってからの途中参加に過ぎないようで、どうも自分の名字に愛着が湧きません。それどころか、長い間夫の名字を名乗っていたせいか、実家の名字も特に懐かしくなくなってしまいました。

私は名字については、どっち付かずの宙ぶらりんな状態になってしまったようです。

名字がなければ問題にならない

それで私が考えたことは、名字が変わる心配がないから、最初から名字がなければ良かったのに、ということだったのです。選択的夫婦別姓制度に反対する人たちは、みな一様にこう言います。

家族で名字が違うなんておかしい!家族の連帯感は同じ名字だから生まれるんだ。

最初から名字がなければ、こんなことを言われることはありません。また夫婦で違う名字を名乗る場合、子どもはどちらの名字を名乗るのか問題になることもあるでしょう。それも最初から名字がなければ問題になりようがありません。

名字がないなんて、現実的ではないと思われるかもしれませんが、名字がここまで問題になるのは日本だけだそうです。今日の新聞の投書によると、チベットではそもそも名字がないそうです。日本人と結婚したチベット女性が、夫の名字で呼ばれることに大変違和感を覚えたというのが投書の内容でした。

私はそれを読んでチベットの方々がたいへん羨ましかったです。最初から荷物は軽い方が良いはずです。若い頃には持てた荷物が年齢とともに重さを増して、肩に食い込むような気がしてなりません。

しかし娘たちにはこう言われてしまいました。

名字が変わることは最初からわかっているんだから、それが嫌なら結婚しなければ良いんだよ。まあ、私は名字なんてどっちでも良いけね。

もう、名字にこだわりたくない

確かにその通りで、ぐうの音も出ませんが、こんなに嫌だとは自分が経験するまでわからなかったのです(これは決して夫の実家が嫌だとか、夫が嫌だというのではありません)。

もし夫が私の名字を名乗ったとしても、それはそれでいろいろな問題が出てくるような気がします(婿養子に入ったのかなどと言われそうです)。だから、やはり名字はない方が良いのです。夫と妻、2つの名字に固執している限り、夫婦別姓は実現しないように思われます。

先程のチベット女性が「何かの事情で名字が変わってしまったら、日本人は自分が何者かわからなくならないか?」とも書いていました。まさに今の私に向けて言われたような言葉が、胸にしみました。

読んでくれてありがとうございます。

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