うさぎ追い中止にその価値を考える・人間が食べることを考える機会が失われる?

生活

今朝のニュースで「うさぎ追い」という行事に非難が集中、やむなく来年は中止になったと報道していました。

うさぎ追いとは、熊本県のある村で行われている行事で、1mくらいの木の棒を手にした参加者たちがうさぎを追い込み、捕まえた後で野に放します。うさぎ追いに参加するのは小学生の子どもたちで、この村では伝統行事ととして1940年代にはすでに行われていました。

うさぎ追いだけが残酷なのか

これが動物虐待だ、時代錯誤だとの非難を受けたわけです。感じ方は人それぞれですから、うさぎ追いを残酷だと感じる人もいるでしょう。実際にうさぎ追いで捕まえたうさぎは手足を持たれ、高々と掲げられますが、その持ち方では怪我をしてしまい、野に放したところで生きていけないという意見もあります。

しかし、いくら残酷だと感じても、自分がその村の住人でもないのに、電話やメールで直接非難を浴びせ、伝統行事を中止に追い込むことは行き過ぎです。うさぎ追いが伝統行事になった経緯を外部の人間はわからないからです。

今私たちは肉や魚などのタンパク源を手軽に摂ることができますが、以前はそうではありませんでした。昭和11年生まれの私の母はかつて、父親(私にとっての祖父)が山でうさぎを獲ってきたと話していました。獲ってきたときはうさぎをかわいそうだと思ったそうですが、料理されたそれは本当においしくて、夢中で食べたそうです。つい最近までうさぎは私たちの貴重な食べ物であり、それは誰かが殺してくれなくては口に入らなかったのです。

食べることがそもそも残酷

かわいそうだと思うのも、肉や魚を食べたいと望むのも、同じ人間の気持ちです。かわいそうだと思っても、殺してでも食べなくては生きていけない時代が確かにありました。それを忘れている、もしくは考えない人が現代にはとても多くなっているような気がします。

うさぎ追いはもしかすると、食べるってこういうことだと忘れないために伝統行事にされたのかもしれません。それを外部の人間の無責任な言葉で中止に追い込むのはやはり違うと思います。

肉や魚を食べなくても生きていけるかもしれませんが、それはほんの僅かの人たちでしょう。それに肉や魚を食べなくても、人間は動物を含む自然に負担をかけないと生きていけないと思います。人間は生きているだけで、いろいろと排出し、環境を汚す存在です。しかし、人間として生まれてしまった以上は自然に負担をかけながら生きていかないとなりません。

うさぎ追いだけを非難しても仕方がないのです。うさぎ追いのような行事をなくしてしまえば、食べること、人間と自然の関係を考える機会も失ってしまうでしょう。

うさぎ追いを非難する人は肉も魚も卵も牛乳も口にしないのでしょうか。もし口にするなら、自分を生かすために命を奪われる動物のことを考えているでしょうか。うさぎ追いという行事に嫌悪感を覚えるなら、自分は果たして口出しできる立場なのかをよく考えて欲しいです。

あまりの非難の多さに村でも驚いたことと思います。しかし、本当にうさぎ追いをなくしても構わないのか、考えて決めるのは村の人たちです。ぜひ、自分たちの意志を通して欲しいと思います。

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