「14才の母」見てました

テレビ タブー

俳優の三浦春馬さんが亡くなりました。彼を初めて知ったのは、ドラマ「14才の母」で主人公の相手役を務めたときのことでした。

今でもよく覚えている

中学生の女の子が妊娠し、周りの反対に負けずにひたむきに母になろうとするのがドラマのあらすじです。主人公に対して、少し煮え切らない態度を取っていた男の子(つまり父親にあたる)が、次第に自分も事実に正面から向き合っていこうとしていく心の動きを三浦さんが見事に表現していると感じました。

亡くなったことを知らせる報道で、年齢が30歳と言っていたので、あれからずいぶんたったのだと知りました。そう言えば、ずいぶん大きくなったな、などと思っていたのです。亡くなったことを知り、月並みですが大変もったいないと思いました。誹謗中傷されていたということですが、それも影響したのでしょうか。

三浦さんにどんな誹謗中傷をしたところで、それはただのひがみとしか思えません。言ってみれば負け犬の遠吠えです。普通の神経を持つ、普通の人たちにはそれがよくわかっているはずです。それでも三浦さんは自分で命を断つことを選んでしまいました。

言葉には力がある

先日も誹謗中傷されたのを苦にして亡くなった女子プロレスラーの方がいました。とても美しい顔立ちで、この人に暴言を吐いたのは一体どんな人なのだろうと疑問に思いました。明らかにひがみ、妬みです。まったく本人は気にする必要がない戯言です。

でも、その戯言が真実よりも力を持ってしまった、ついには命まで奪ってしまったのですから、本当に怖いことです。死を選んだのは本人かもしれませんが、そうしむけたのはたくさんの言葉だったはずです。自死というのは最終的な方法を表しているだけで、原因は他にあります。

よく言霊ということが言われますが、確かにそれはあると思います。良い意味だけでなく、悪い意味でもあって、人を追い詰めるのではないでしょうか。

言葉の力を無視しないようにしたい

幼いころに読んだ童話に喋る度に口から宝石が出て来る、心の優しい女の子の話がありました。意地悪な姉の口からは虫や蛇が出てくるようになったそうです(うろ覚えです。間違っていたらすみません)。今はこれって言葉の力を表しているのではないかと思っています。

もしかしたら自分の口からも虫や蛇が出ているのかもしれません。言葉はしゃべるだけではなく、こうしてブログを書いているときにも使っています。下手をすると虫と蛇の羅列ということになってしまいます。

三浦さんの訃報で久しぶりに言葉について考えました。もう、新しく彼の演技を見ることはできませんが、ドラマを見たときと同じくらい考えさせてもらえました。言葉を使って何かを伝える人が、言葉によって追い詰められたとしたら(まだ、断定はされていませんが)、こんな皮肉なことはないと思います。

私たちは喋らずには生きていけません。コロナ禍で人とマスク越しにしか喋れないことで、これを実感した人は多かったのではないでしょうか。でも、自分の言葉について反省する機会はあまり多くありません。今回、言葉をもっと大切にしたいと強く感じました。

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