初めて知った道路族

タブー

道路族という言葉を今日初めて知りました。道路で毎日のように長時間遊ぶ子どもと親のことらしいです。道路族に悩む人のブログを読んだのです(こちらのブログです「コミュ障ママのスマホ依存引きこもり生活」)。

道路族と一緒にできないけど

確かに自分の家の前でそれをやられたら、精神的にキツイだろうなと思います。私は近所の人に会ったら、あいさつくらいはしますし、以前は立ち話もしていました。しかし、あることがきっかけになり、立ち話は控えた方が良いと思いました。

それは下校する子どもたちの見守り運動です。我が家は最寄りの小学校の通学路の途中に建っています。大きな通りではありませんが、カーブしているので見通しは悪いです。我が家の門はちょうどカーブが一番ふくらんだ場所にあるので、ミラーも立っています。

我が家の門の前に立てば、カーブの先まで見通せるためでしょう。我が家の方を向いて見守り運動の人が立つようになりました。最初はまるで我が家のことを見張っているようだと感じました。見守り運動は定年を迎えたくらいの年齢の人たちが好意で始めたものです。これから育って行く子どもたちの安全を守るためだと思えば本当はありがたいことだと思わなくてはなりません。

毎日家の前に立たれる負担

でも、毎日のことになると、こちらは気が重くなってきます(なにしろ見張られていると感じるくらいなのです)。別にうるさくされるわけでもないし、私の感じ方がおかしいのだと思います。でも、本当に嫌で、そろそろ見守りの人が立つころだから、早く洗濯物を取り込もう、とまで考えるようになってしまいました。

これは私以外の家族も皆同じ思いだったようです。娘たちが中学や高校のころには、よく帰ってきてから文句を言っていました。娘たちの言い分はこうです。

むすめ
むすめ

なんで、家の前に人がたくさん立っているの?自分の家に入るのに、あいさつしたりして、気を使わなくちゃいけないなんて、すごく嫌なんだけど。

夏休みや冬休みは、見守り運動がないのでホッとしたくらいです。たとえまっとうな理由があっても、自分の家の前に立っていられるのは心の負担になります。これは経験してみないとわからないことです。それ以上に毎日うるさいのでは、本当に嫌になってしまうでしょう。

経験しないとわからない嫌さ

私もここまで負担に思う自分が意外でした。私も実際に自分が経験してみるまで、わからなかったのです。だから、今までは考えたこともありませんでしたが、立ち話をするのにも神経を使うようになってしまいました。コロナ禍で皆が閉じこもりがちになったので、立ち話をする機会自体も減りましたが、ちょうど良かったと思っています。

現在は見守り運動も中断中で、実はホッとしています。道路族と言われる人たちも多分、特別にうるさくしているという自覚はないでしょう。でも、特別に騒音を発していなくても、毎日自分の家の前に同じ人が立っていたらと考えてみた方が良いと思います。コロナ禍でややこしくなった世の中を生き抜いていくために必要なのは、想像力かもしれません。

コロナの収束と同じくらい、道路族に心を乱されている人たちが安らかに生活できることを祈っています。

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