最近楽しみにしているブログ「すべてがユルい春子の日記」。60代の春子さんが、久しぶりに90代のお母さんとの同居を開始、介護生活が始まるのかと思いきや、見事な共同生活を送っている様子がとても気持ち良かったのです。
春子さんを応援するつもりでブログを読んでいたら
私自身は親の介護というほどのことはしていませんが、それでも親の具合が悪くなってくると、とても心細く暗い気持ちになってしまいました。私は何をどうすれば、親にとって一番良いのかもわからなかったからです。
それを思うにつけ、暗い介護よりは明るい共同生活の方が母は良かっただろうと、春子さんの姿勢に賛同、彼女を応援したい気持ちでいたのです。
ところがお母さんは食欲を失い、11月30日には入院することになります。そのときの記事を読んで、私もいろいろと思い出すことがありました。
現在もお母さんは入院中で、やはり食事を摂ることはできていません。病院側では90代になったお母さんに積極的な治療を施さない、と考えているようですが、春子さんはお母さんの延命治療を望んでいます。食事が摂れないなら胃ろうを希望することまで考えています。
お母さんもまだ春子さんと一緒にいたいと考えており、そのためなら何でも受け入れる覚悟をしています。つまり、病院側と春子さんたちの姿勢には大きな隔たりがあるわけです。
春子さんの願いは当然のこと
春子さんはブログ内に、お母さんの頭脳は明晰で意思の疎通も十分にできると書いています。その人がもっと生きたいと言っているのを尊重しないわけにはいかない、と考えているのです。
世間では年を取った人に無理な延命治療を施さないのが良い方法だと思われています。苦しい思いをさせて、身体に管をたくさんつけた状態で命だけを永らえても仕方がないということは理解できます。
ただそれは、本人がもっと生きたいと言っているのに、何も手を差し伸べないのとは違うと思います。
私の母は、闘病の途中から意思の疎通がまったく取れなくなりました。幻覚と幻聴の中だけで生きていましたが、ごくまれに正気に戻ったのかと思うようなときがありました。
医師からはそんな母に抗がん剤を投与しても、苦しい時間が延びるだけだと言われて、治療はしないと決めたのですが、それでもこれで良かったのかと繰り返し考えました。たとえどんなに年を取っても、意思の疎通がかない、ともに楽しく暮らせるなら、生きていて欲しいと願うのは当然のことだと思います。
ブログを気にしつつ、自分のことを思い返した
これから春子さんのお母さんがどうなるのか、とても気になっています。もし、食事が摂れるようになったとき、残された時間はどれくらいなのかとも思います。
しかし、あと20年は難しくても10年くらいは時間が残っているかもしれません。10年あったら、お母さんはどんなに春子さんと自由気ままな楽しい時間が過ごせるでしょう。お母さんも春子さんも、そしてお医者さんもまだ諦めずに頑張って欲しいと思います。
私の母が亡くなったのは2015年、79歳のときでした。今、生きていても春子さんのお母さんよりは年下です。世間の目に遠慮して、諦めるのが早すぎたかな…