子どもの習い事について・その後

タブー

昨日「子どもの習い事について」という記事を書きました。そんなことはたとえ思ったとしても、やはり口に出すのがはばかられるわけで、だからブログに書いたのです。

考え方はともかく、見た目は普通の50代主婦です

散々、そんなことはいってはいけないといわれたし、自分でもあまりいわない方がよいと思っていましたが、ブログでも同じような反応が帰ってきました。確かに子どもの習い事や送り迎えが苦ではない人はこの世にたくさんいるし、その方が親としてはまっとうな態度ですね。

この世にはまっとうな考え方をしている人がたくさんいることを私は知っていて、それを邪魔しようとは思いません。できる人、やりたい人のことを悪くいうつもりもありません。

ですが、私は私の態度を改めることはできません。私が子どもの習い事で送り迎えをしていた頃は、かなり前のことで(10年くらいです)、もう終わってしまったことだから改めようがありません。そして過去のことにも関わらず、私の意見はちっとも変わらないからです。

私が楽しみに読んでいたブログを書いている方が、私と同じようなことをいっていたので、それを考えるのは1人ではないよ、といってあげたい気持ちもありました。何かが苦手でも、面倒だからやりたくないと思ってしまっても、子どもを育てている人は、きっと自分にできることはしてあげているのだと思います。無理してでもやってあげることが(それがどの程度かは人によって違いますが)、私には素晴らしいことだと感じられます。

でも、いつもいつも我慢ばかりしているのは、人間として何かが違うのではないかと私は思います。たまには本当の気持ちをいってもよいのではないかと思うのです。

違う考えは受け入れなくてもよい!

私の場合は時間もたっているので、もう時効だという思いもありました。それでも、真っ向からまっとうなご意見を述べられると、私はちょっと悲しくなります。

世の中にはいろいろな考えの人がいます。もちろん自分とは違う場合があるでしょう。そのときに、わざわざ違う意見を伝えなくても、ただ同調しなければよいのではないでしょうか。受け入れなくてもよいのです。私も自分の意見がそんなにも人々に賛同してもらえるとは思っていません。自分の書いたものを誰かが読んでくれるだけで、どこかに同じことを考えている人はいないかな~、と考えて、少しは気が紛れるのです。

意見の違うもの同士、お互いを尊重するのは難しいことです。自分の意見をいっているだけ、のつもりが相手を追い詰めることがあるからです。特に世の中で多数派、正しいといわれている意見ほど、相手を追い詰めることがあるように思います。人はまっとうな意見に触れると、同じようにできない自分をダメだと思ってしまうことがありますから。

だから、少数派や自分はまっとうではないとわかっている人は、自分の考えを公言せずにブログなどに書いて、憂さを晴らすことになるのでしょう。

とりあえず、違う考えは置いておこう

私はいまだに、違う考えの人とは、どうやって歩み寄ればよいのか、よくわかっていません。今までの経験では、考えがぶつかると、どちらかの考えが採用されるだけで、不採用となった方は捨て置かれていました。でもAとBがぶつかったとき、どちらかを選ぶのではなくまったく違うCが生まれたら、すてきです。

でも、それはなかなか難しいことです。私にもどうしたらよいのか、わかりません。
まっとうな意見の方には、私の意見は不思議かもしれません。理解できないかもしれません。だから新たにCが生まれることはないでしょうが、別に同調しなくてもよいので、そのままそっとしておいてください。

それでは不満が溜まるというなら、そんな考え方の人もいるんだ、と自分のブログなどで紹介してみてください。そうしたら、もしかして新たにCが生まれて、物事の別の面を見られるようになるかもしれませんし、お互いに損にはなりません。

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